精神世界ニュース掲示板の続き

精神世界ニュース掲示板の続き

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:33:01

水屋神社
鎮座地

三重県松阪市飯高町赤桶

http://www.mizuya.org/07_shozaichi/shozaichi.htm


ヨーロッパ初の神社がフランスに
二〇〇六年 水屋神社

水屋神社。三重県に鎮座する大変由緒ある神社。
奈良の春日大社と伝統的にも歴史的にも縁が深く、
後者と同じくアメノコヤネノミコトを祀っている。
また、春日大社に浄水を捧げる役割を果たす神社でもある。
※※ 鴬張り。知恩院、また同じく有名な京都の二条城には、「鴬張り」と呼ばれる廊下があります。一見普通の廊下ですが、歩くと鴬がさえずるような音がします。侵入者が忍び込むのを防ぐため「忍び返し」とも呼ばれます。
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei18/shimpo_173.htm




飯高町赤桶の水屋神社

「正八幡宮」の社名額について

宮司

 先代の良任宮司の著「ふるさとの訛なつかし」(三重タイムズ社刊)
一四二~三頁にすでに書かれていますが、
★当社には★源義経由来の額があります。
 ★源義経が、
文治の頃、吉野の山を出て
★伊勢神宮へ参詣の途次、赤桶の相模峠にさしかかるやいなや突然黒雲が起こり、
★八幡の旗が雲の中より翻ったといいます。
義経はこの吉兆に喜び、
そこに
★八幡社(後の★相模神社)を建立したと伝わっています。
★明治時代の末期にこの神社は
赤桶の秋葉神社や作滝の滝野神社などと共に
★水屋神社に合祀されました。

現在ではこの額はいくつかの理由のため、旧い水屋社の額と共に
★齋館神殿に移され、大切に保管されています。
近くから一度ゆっくりご覧ください。

http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei17/shimpo_168.htm

飯高町赤桶の水屋神社

水屋の神様 フランスへわたる
フランス水屋神社分社

水屋神社
「お水送り」のご報告

 今年も無事お水送りがすみました。心から感謝申し上げます。
・十一月九日  夕六時より閼伽桶の井にてお水汲み
・十一月十一日 春日大社へお水送り
 午後 後醍醐天皇がお祀りされている「吉野神宮」、後醍醐天皇の皇居「吉水神社」、静御前が捕らえられ、またそこで舞われた所という「勝手神社」に参拝いたしました

http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei18/shimpo_177.htm



寶山寺は霊験顕かな聖天様を祀る大変ありがたい寺で真言宗全体をお守り下さっていると言われていた。

男尊はインドのビナヤカという障碍神であるが、実は人間の奥深く秘む生命の力、コントロールの届かない原始的、動物的な欲望である性欲を象徴している。女尊は菩薩で、慈悲と知慧をもってやさしく導く十一面観音である。


ガネシャは潜在意識を支配し、内外の障碍を除くことで有名で、大事な行事には必ず絵姿を祀り、祈る。例えば寺院や家の入り口とか宗教書の第一頁に描かれているし、すべての儀式の始めに祈る。
 又、古代にはガネシャの祭祀は極秘密にされていて、王に仕える特殊階級の人々の間でだけ伝えられていた。なぜなら象の頭は宇宙を支配するとされ、従って王国を支配する力を持つと考えられていたからである。

歓喜天に祈り始めた頃、話しかけると答が返り、友達になったようで驚き、面白く思った。
 ある朝、ふと見ると灯心が燃えている器のふちが黒く汚れているのに気がついた。常に清潔に保たねばならないことはよく知っていたが、夜中ずっと祈った後だったのでつかれて、すぐに掃除をする気にならず、心の中で白い器に黒い点々はきれいだよと話しかけて平気でいた。そして毎朝するように近くの農家まで歩いて牛乳をもらいに行った時、農家のおばあさんが牛乳を注ぎながら「何といおうと汚れは汚れだからきれいにせねばね」と私に言った。おばあさんの口をかりて歓喜天が言ったことだと、すぐに分かったので、直ちに掃除をしたことは言うまでもない。清潔は絶対に守らねばならない。
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei17/shimpo_167.htm


二月堂本尊の十一面観音を祀る懺悔祈祷の厳行であり、
752年(天平勝宝4年)、良弁(ろうべん)の高弟実忠(じっちゅう)によってはじめられたと伝えられている。お水取りの通称は、東大寺領であった若狭の荘園から水を運搬して来たことに由来する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%B0%B4%E5%8F%96%E3%82%8A

飯高町赤桶の水屋神社

春日大社への「お水送り神事」
貞観元(八五九)年の十一月九日から始まる
2002年に425年ぶり復活
http://www.mizuya.org/03_shimbun/shimbun_141110.jpg

千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。その後、大化4年(648)奈良の三笠山から素盞鳴命、龍神姫命を勧請す。和銅3年(710)興福寺東門院領「閼伽桶の庄」となり、慶長5年(1600)関ヶ原合戦以降伊勢領となる。
 当社にのこる南北朝時代文中2年(1373)の棟札にも大和州閼伽桶庄宮と記されており、三殿並立朱塗りの春日造も、明治25年、現在の神明造に改められた。

由緒
 垂仁天皇25年(紀元前51年)天照大神が当地に巡幸された際、この地に鎮座しておられた春日の神と議って川中の巨石を以って伊勢・大和両国の境とした。この話は、隣接する滝の郷が神宮内宮の御厨であるという「神鳳抄」の記事を考えあわせると、当社が興福寺領の西端を、滝野郷が内宮領の東端を示すものとして注目される。
 里人は今もこの巨石を「礫石(つぶていし)」、また、その付近を「堺が瀬」と呼んで慕っている。柳田国男はその著書「日本の伝説」のなかでこの話を取り上げている。
 神社名(水屋神社)・所在地(赤桶)・特殊神事・(水取り)祭神(龍神姫)などすべてにわたって水との関わりがあり、当社の西方約700メートルのところには「閼伽桶(あかおけ)の井」がある。
 旧記・古文書の類にはこの「閼伽桶の井」の神水を二振りの桶に汲み、貞観元年(859)11月9日より春日大社への奉納を始め、天正5年(1577)の兵乱で中絶したとある。しかし、細々ながら神水はその後も当社へ奉納されてきた。
http://www.mizuya.org/04_gosaijin/gosaijin.htm



飯高町赤桶の水屋神社

文中二年(西暦一三七三年)の水屋神社棟札にも記されている通り、赤桶の旧名は「大和州(やまとのくに)興福寺(こうふくじ)東門院領(とうもんいんりょう)閼伽(あか)桶(おけ)の庄(しょう)」です。
  そして「閼伽(あか)」とは、梵語(ぼんご)の「Arghya」の音写しです。「香り高い水」「仏に奉る聖水」の意味です。また『水屋』とは、関西地方では水を扱う「台所」を指しています。
 すなわち、水屋神社は、事実上興福寺と一体であった春日大社の台所(水屋)として、貞観元年(西暦八五九年)より、"二振りの閼伽桶"に汲み、水送りしてきたのです。

一四五号の神報において『拾傳集』の事について触れましたが、なかなか難解なこの書物、その記述については色々と不可解なことが有りまして、詳細は目下調査中というのが現状です。
  さて、『飯高町郷土史』で先代宮司である久保良任翁は、これの成立が「延宝二(一六七四)年」であるとされていましたが、検討の結果、どうやら少し下がって延宝八(一六八〇)年以降であることが解ってきました。まだまだ謎の多いこの記録、今回は「国分け伝説」の謎に氏子崇敬者の皆様とともに迫ってみたいと存じます。
 さてその「国分け伝説」は諸説ありますが、『拾傳集』に記載されている内容は次のようなものです。

「伝えに言うところでは、昔、天照太神が白馬に乗って大和国と伊勢国の境を見ようとこの辺りまでおいでになりました。そこで『誰かこの境を知らないか』と仰ったところ、水屋の森(註・当社鎮守の森と考えられます)から翁(註・現当社主祭神「あめのこやねのみこと様」の事です)が出てきて『堺が瀬が国堺です』とお答えになりましたが、『それではおかしい』と天照太神が仰ったので、国分けを行うことになりました。太神は礫石を堺が瀬にお投げになり、それにより起こった逆巻きの波を白馬で上流へと追いかけられました。すると「日高見が嶽(高見山)(註・「イヒダカミノ嶽」とも読めるので「飯高を見降ろす」の意味でしょうか?)」で波が止まった為、『ここが新しい国境ですよ』と翁にお伝えになりました・・・」

 ここまでは、大同小異ありますが諸説が伝える「国分け伝説」とほぼ同じ内容です。ところが『拾傳集』では以下にこうあるのです。

「その太神のお言葉を受けて翁は『草も木も日高見嶽から東は全て太神様のものです』と言われました。すると太神は『翁のお住みになるところは大和国がふさわしい』として、翁は元の水屋の森にお帰りになりました。・・・」

 土地勘のある氏子の皆様はこの矛盾点にもうお気づきでしょう。「国分け」をしたところで結局、「国分け」する前と国境が変わらなかったわけです。何の為の国分けだったのか。全く不可解極まりないとはこの事であります。
 理由は皆目見当がつきませんが、元々あった「国分け神話」を何れかの時代に、当時の人々に都合良いよう書き換えた可能性も考えられましょう。しかし私も飯高町の住人でないので土地勘もまだまだ、皆様のお知恵を拝借できればと存じます。
 これからも定期的に「『拾傳集』の謎」をご紹介していきたいと思います。(細)
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei14/shimpo_148.htm

飯高町赤桶の水屋神社

「お水送り」神事の歴史は飯高町の財産です

「お水送り」という神事、どうもその歴史を見ると、この飯高町一帯に伝わる「国分け神話」と大変関わりがあるようです。「国分け神話」では、春日の神(天児屋根命様[アメノコヤネノミコト])と伊勢の神(天照大神様[アマテラスオオカミ])が珍峠で出会い、大和国と伊勢国の境をどこにするのか、協議をした結果、「礫石」を投げてその落ちた場所を国境としたことが伝わっているわけですが、このときにこの水屋の森に天児屋根命様がお住みになられたことが江戸時代の古記録に神話として現われてきます。この後、今から千四百年程前には、天児屋根命様が一時春日大社へお帰りになる代わりに、水屋社の三神として素盞鳴命様(スサノオノミコト)・奇稲田姫命様(クシナダヒメノミコト)・龍神女様(リュウジンニョ)が御鎮座されたことが続いて記録に出てきます(現在水屋神社の主祭神は天児屋根命様です)。
 さて、お水送りの始まりはと言いますと、『飯高町郷土誌』にも記されている通り貞観元年(八五九)十一月九日とあります。この日は春日大社の春日御祭の始まりとされる日で、それに使われる御神水として赤桶の水が送られたわけでありますが、なぜ赤桶の水でなくてはならなかったのでしょうか。記録にはその理由として「春日の神である天児屋根命様が鎮座していた旧地であること、水屋社の三神が鎮座していたこと」が挙げられています。春日大社と縁が深いことは当然の理由ではあろうかと思いますが、この水屋社の三神が鎮座していたことも重要であったのです。特に「龍神女様」という神、当神社では現在「龍神姫命様(リュウジンヒメノミコト)」として祀られておりますが、もともとはどうもインドの神様の流れを汲む様で、「ナーギー」と言う蛇神、つまり龍神で水をつかさどる女神であるようです。この神は生命の源である水を清浄に管理する役割があるようですが、この神をお祭りする神社は今のところ私の知る限りでは当社の他に見つかっておりません。追跡調査中です。
 これらのことから、なぜ水屋神社が春日大社へ御神水を奉納するお社として選ばれたのかがおおよそ見当がつきましたが、もう一つ疑問が残ります。それは春日大社がなぜ御神水を必要としたのか、というものです。
 理由はよく判っていませんが、郷土史家である田端美穂氏の説では、当時の奈良は大仏や寺社の建立に用いられた大量の水銀が地下水脈に入り込んで、水が飲めない状況となっていた可能性を仰っています。これが本当ならば、御神水をわざわざ遠くの水清らかな場所に求めたのも、頷けます。
 赤桶の水が御神水として選ばれたのは、もとを質せば、春日の神と伊勢の神が水屋の社近くで出会い、国分けをしたことから始まります。しかもその神話の地名が、珍峠、加波、波瀬、舟戸のように、飯高町の各地に点在するのはとても興味深いことであります。そしてこの「お水送り」が谷筋を練り歩き、高見峠を越えて春日大社へと送られたであろうことを考えますと、現飯高町の地域は、お水送りの始まり、そして終焉までを共に歩んだ地域であると言えるでしょう。
 まさにお水送りとその歴史は、飯高町の財産と言えるのではないでしょうか。(細)

ここで突然ですが・・・国分け伝説に関係か? 久保切の「祓塚」

 右の写真ですが、最近当神社で確認した「塚」であります。ごく一部の方には知られていたようですが、氏子崇敬者の方々には初めて知られた方も多いのではないでしょうか。古老によれば「祓塚」「榊塚」などと呼ばれているものだそうで、古記録には「伊勢大倭両国の境としてよって境社と号す」とある「境社」の跡地ではないかと考えられます。このように現在ではもう分からない「国分け伝説」にちなむ場所は、飯高町各地に存在するのではないでしょうか。
 現在調査中ですので、詳細が分かり次第掲載する予定です。

飯高の歴史小話  お水送りの終焉と「天正兵乱」

 十一月九日に斎行される春日大社への「お水送り神事」は、一般に天正五(一五七七)年のいわゆる天正兵乱によって断絶したと言われますが、この兵乱は一体どのような戦いであったのでしょうか。少し氏子崇敬者の皆様とともに紐解いてみましょう。
 南朝の時代から永らく、雲出川の南岸から志摩半島を含む紀伊長島まで「伊勢国司」であった北畠氏の治める土地でありましたが、永禄十二(一五六九)年に織田信長に攻められ、講和の際、信長の三男信雄(のぶかつ)が九代国司具房(ともふさ)の養子となることにより、実質上、織田氏に乗っ取られてしまいました。この川俣谷の諸侍は代々国司家に忠節を尽くしてきましたから、その悔しさは如何ほどであったことでしょう。
 ところで、国司家の庶子は数代にわたり、奈良春日大社と縁深い興福寺の東門院に入って出家する事が続いていました。この宗家の事態に焦りを感じた八代国司具教(とものり)の舎弟は、還俗して北畠具親(ともちか)を名乗り、北畠家の回復を掲げてこの川俣谷の森にて挙兵し、それと時同じくして川俣谷や波瀬の諸侍も一致協力、各々の砦に立て篭もりました。なぜこの地域で具親が挙兵したかといえば、春日大社はお水送りなど水屋神社と強い結びつきを持っていましたし、また谷筋の諸侍も北畠家に忠義厚い人達であったことも理由でありましょう。
 しかし結果は散々の敗北を期し、各砦に立て篭もった諸侍の多くは戦死、具親も今の広島県に武威を誇った毛利家を頼って落ち延びてゆきました。このような戦いの結果、川俣谷一帯は荒れ果て、閼伽水を入れる赤桶も紛失したと言われ、お水送りを執り行う余裕を氏子達はまったく失ってしまったことでしょう。
 具親と共に戦った侍達の多くは、日頃氏子を指導する、谷筋の神社の氏子総代のような役割を果たしていた人達だったと思われます。この赤桶でも、彼らが立て篭もったであろう城跡があります。西願寺の背後に聳える「赤桶城」であります。この五十人も入れば一杯になるような小城で戦った赤桶の先祖達は、果たしてどのような想いを抱きつつ散って行ったことでありましょうか。
 以上は古記録も乏しい遥か昔の事件ですが、やはりこれによりお水取りが廃れてしまったようで、江戸時代中期頃の古記録には牛頭天王社(現・水屋神社)の祭典に「お水取り」神事は記されていません。しかし昭和十五年の時点では「お水取り」が以前から執り行われていたようですから、恐らく再興されたのはそう遠くない時期のようです。
 このように、いにしえの村の行事が断絶を経てまた復活し、今に伝えられていることは、赤桶のみならず、奈良と三重の歴史からみても、また全国的に見ても極めて驚異かつ奇跡とも言えることです。春日大社へお水送りを執り行っていた氏子の人々は、春日大社へのお水送りを地域の誇りとしていたことでありましょうから、その在りし形の復活を夢見て連綿と記憶を絶やさぬよう持ちつづけ、そして復活を遂げたので無いでしょうか。
 この度のお水送り神事復活、赤桶のみならず、川俣谷に散った多くの人々の歓呼の響きを感じる気が致します。(細)

飯高町の基礎資料 『拾傳集』の紹介

 最近の当神社資料整理の中でこの『拾傳集』が見つかりました。この資料はもともと滝野神社の宮司家で江戸時代に庄屋を務めた滝本家に伝わった原本を写したもののようです。内容は、周辺の歴史を記した書物を纏めなおしたもので、『飯高町郷土誌』にも資料として紹介されています。江戸時代以前の資料は皆無といわれる飯高町ですが、この『拾傳集』はそれらを克明に記した、飯高町の歴史を知る上ではまたとない貴重かつ重要な資料といえます。お水送りの云われなども記録されており、今後輪読会なども催したいと考えています。

現代に蘇えるお水送り神事 その意義とは?

 私がこの水屋神社にお世話になってからもう半年以上が経ちました。私やもう一人の出仕常山君もそれぞれ嬉野町・津市の人間で、飯高町というと「山奥」「お茶が美味い」「米があまり取れそうもない山奥なのになんで飯高なのかな」などと考えたりしておりました。
 我々がお世話になってからというもの、夏越大祓の盛大な挙行、お水送りの復活など、多くの素晴らしいニュースが続き、私達も今まで以上に気を引き締めて微力ながらお役に立ちたいと思っても居ます。
 さて、先ほども申しましたが、飯高町というとどうしても「山奥の不便な」というイメージを平野部や都会に住む多くの人々が思ってしまうのは残念ながら無理からぬことでしょう。飯高町役場が発行している町報の特集(二〇〇一年五月号特集)には、飯高町へ何故やって来たのかのアンケートに、

自然と親しむ(蓮ダム・森林浴・荒滝・高見山・ホテルスメール周辺など)

和歌山街道散策

などが挙げられ、これらの人はまた、「ちょっとブラリ」が約七十五パーセント、「観光」が二十五パーセントと、気軽に来れる自然の豊かな場所という意見が多いようです。
 この「ブラリ」が大変多いというのはとても重要だと思います。なぜなら、飯高町が「気軽に日帰りで来れて、自然が大変豊かである」という、都会の人たちが好きなときにちょっと一服したいときに来れる、身近な場所であることを表しているからです。たしかに、水屋神社に来られる方で多いのが (1)津(2)松阪(3)伊勢(4)奈良(5)大阪方面 といった具合で、「ブラリと遊びに来たついでに」という方が多いようです。大阪からも日帰りで来れるというのはすごいですね。
 ただこの町報の続きに、来てみて「悪いところ」というのがあります。挙げてみますと、

前より川が汚い

案内板が少ない

などがありました。確かに観光目的で来る人が多いわけですから、案内板が少ないのは致命的では有ります。しかしより問題なのは「川が汚くなっている」という意見だと思います。
 この飯高町は櫛田川の上流域であり、分水嶺の高見山を含む水源ということが出来ます。水は生命の源であり、森林は天然のダムであります。そしてその森林も、豊かな水資源の下で育っているわけです。しかしながら残念なことに、近年の材木不況で山は荒れ、また雑木に代わって杉や檜が植林されたため、山林の抵抗力や保水力が年々落ち、引いては水質の悪化、水量の減少を招いているとの事です。長い年月で考えたときに、大変深刻な問題といえるでしょう。
 ここでこの水屋神社の「お水送り」を併せて考えてみましょう。お水送りは先ほども書きました様に、水を掌る神「龍神姫命様」が、この櫛田川の源流に御鎮座されていることから始まったようですが、先に述べた櫛田川流域の自然環境が悪化しつつあるこの時期にこの神事が復活するということに、大変な意義を感じます。この神事は当時における清浄な水・貴重な水の象徴であり、当時の人々の水に対する強烈な憧れを表すものと考えられます。まさに水の大切さ、そして神水をお納めする誇りを持って永く谷の人々により守られ育まれてきた祭典であると言えます。
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei14/shimpo_145.htm

当水屋神社の特殊神事は言うまでもなくこの「お水祭り」です。詳しいことは先代宮司が「水屋神報」で詳細を書かれておりますが、ここで改めて簡単にお水取り神事と水屋神社の関係を考えて見たいと存じます。
 水屋神社はもともと「閼伽桶庄宮」と呼ばれおりました。閼伽桶(赤桶)庄の「閼伽桶」とは梵語「閼伽(水)」の桶ということであり、また伊勢大神(天照大神)と春日大神(天児屋根命)による「国分け伝説」も櫛田川の水の流れが関係しており、如何に当社が「水」と関係が深いかを物語るものであります。またこの水屋神社の創始が春日大社の御祭神と深く係わりがあるのも周知の通りです(『飯高町郷土史』八三六頁)。
 さて、この閼伽桶の水は二振りの「赤桶」に入れて春日大社に奉納されたのち、春日大社で作られる「正月暦」に用いられたと記録にはあります。この「暦を作る」という仕事は、その昔は神から統治権を代行した皇帝にのみ許された権威であり、それは時代が下ってもその重大性は失われず、ましてや農業国であった日本においては、一年の暦ほど必要不可欠な情報はありませんでした。全国各地に居たであろう春日大社の氏子達は、その正月歴を手にして一年の計を立てたことで有りましょう。
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei14/shimpo_143.htm


飯高の地は、古くから瀧野が「御厨(みくりや)(伊勢神宮の領地)」として設けられ、柿や栗といった神饌を受け持っていたことはよく知られたところでありますが、乙栗子から栄誉、伊勢神宮の造営に携わった人物がいたということは、この飯高の地がそのような腕の良い、山の恵みをうまく生かす技術者が大勢いたことを匂わすものであろうかと思います。
 今は手元に控えが御座いませんが、今を去ること五百数十年前には、瀧野御厨が北畠氏の家臣に「押領」され(「おうりょう」 当時の言葉で、土地の横領のことです)、柿や栗といった貢納物が入ってこず、神宮の祭典をつかさどる役目の者が困っている、といった内容の史料も御座いました。
 以前の神報では「飯高町は史料がほとんどない」と述べた私ではありますが、丹念に調べていけば「まだまだある!」と最近考えを改めました。
 謎の多い当社を巡る歴史も、明らかになる日はいずれ来ることを確信する次第です。(細)
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei15/shimpo_152.htm

「吉元将軍」も立派な神々様の一柱であります。その御縁は、日本に三百数十年ぶりに神様として御帰国なされ、さらにこの村の鎮守である水屋神社にお祀りされるという全く数奇なものであり、翻って考えれば、「島国根性」と揶揄される現代日本人の祖先が、いかに世界を股にかけて活躍していたかを窺い知ることが出来る、大変有難い神様といえるのではないでしょうか。
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei15/shimpo_149.htm

滲み入ることば

子供たちはこうして生き方を学びます ―アメリカインディアンの教え―
  批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします
  ひやかしを受けて育った子ははにかみ屋になります
  心が寛大な人の中で育った子はがまん強くなります
  敵意にみちた中で育った子はだれとでも戦います


作 ドロシー ロー ノルト 訳 吉永 宏


おしらせ お水送りについて
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei16/shimpo_164.htm


水屋神社には伏見のお稲荷さんが祀られています。それについては先代宮司がその著「ふるさとの訛なつかし」(一三〇~一三四頁)に、文政五年(一八二二)に赤桶村の代参人として佐野伊右衛門さんらが京都伏見にお稲荷さんの分詞許可状
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei16/shimpo_163.htm


サイ粒子(幽子)を解明され、このサイ粒子で怨霊も解説されているのです。 そしてですからこの春の祈願祭は水屋神社とのご神縁によって導かれた方々の集まりであるような気がするのです。人々は意味をもってご縁を持ち、交わっているのかもしれません。

天野仁 著「宇宙の存在(いのち)に癒される生き方―生きがいを発見する科学。」(徳間書店、一九九七年一二月三一日 初刷)より
京都大学博士課程修了。理学博士。湯川秀樹博士の研究室で素粒子論を研究。宇宙論・宇宙科学の分野で国際的に活躍し、さらにジャンルの異なる専門学会に幾多の論文を発表、注目を集めている。文部教官を務めた経験もあり、また詩人・神道の研究家としても知られる。

 私たちの身体の「かたち」がどうなっているかは、着替えのときとか、入浴のときとかに、鏡と我が身を見較べればすぐにわかります。自分はこうでも他の人は違うかもしれないと、そこまで気になった人でも、銭湯とかヌード写真とかで納得されていると思います。私たちの身体は、こういう誰もが理解しているような形の輪郭を持つように、皮膚で外界と仕切られています。
 この本で主張していることは、私たちの身体はこういう形の肉体だけでできているのではないということです。どうなっているかといいますと、「目に見えている肉体」に「目に見えない気体状の部分」が重なってできているのです。この「目に見えない気体状の部分」を、この本では「生気体(サイキック・ボディ)」と呼ぶことにしましょう。生気体こそは、私たちの「生命の源泉」であり、「魂」であり「心」です。意識や意志を、その部分が担当しているのです。
 その上、記憶を蓄積することもできます。この生気体があるからこそ、私たちは生きているのです。ですから私たちが死ぬときには、この生気体は抜け出して行きます。人間だけでなく、万物すべては、こういう基本的構造になっているのです。有機物質から成る構成体に生気体がついたものが、生命体、即ち生物と呼ばれているものです。岩石や建造物にも生気体はありますが、こういう無機質の場合には、生きているとは言いません。でも、生気体の本質からいいまして、無機的な構造体にだって「心」があるということになりますね。これは、私たちの心すべきことです。たとえば、石にも意志があります。何となく似たような話を、どこかで読んだような聞いたような感じがする方もおられるかと思いますが、この話は、その手のものとは全く違って、世界で初めての最も進んだ考え方です。
 なぜかといいますと、この「生気体論」は、現在の物理学の最前線の知識で裏付けられているからです。素粒子論の最新理論の一つに、超弦理論というのがあります。生気体の話は、この理論に基づいています。この理論から出てくる新しい素粒子、これまで発見されていなかった素粒子が、この生気体の話では大きな役割を果たしているのです。これを、「生命子」または「サイ粒子(パーティクル)」と名付けようと思います。なぜなら、この素粒子の存在を考えることによって、超常現象や霊的なこともわかってしまうからです。
 精神世界の現象をオール解決する素粒子なら、「サイ粒子」で良いのではないでしょうか。この粒子は電気を持っていませんから、壁でも天井でも通り抜けることができます。極微の物理学である量子力学によりますと、粒子は波でもありますから、心や意志の波、「思念波(サイキック・ウェイブ)」が存在することになります。生きているということは、「生命力の場(サイ・フィールド)」があるということです。それを生気体が与えているわけです。この力を媒介しているのが、これまで未発見だったサイ粒子です。
 私たちの世界は、これまで四次元の時空として知られていました。ところが、超弦理論では、たとえば一〇次元というような高次元空間として、世界を捉えます。私たちの考える生気体は、もともと超弦理論から考え出されたものですから、それは、このような高次元空間における存在物として考えられているわけです。余分の次元がありますから、これまでの考えでは手のつけられなかった事柄まで説明してしまいます。
 また、物理学では四つの力が存在していると考えられています。重力と電磁気力と、原子核や素粒子に関係した二つの力の合計四つです。自然界には、今や第五の力として、この新素粒子による「生命力」が追加されることになります。これは、まさしく「万物の理論」(Theory of everything)であります。
 これで、宇宙の森羅万象は説明されてしまいます。ついに、自然科学と精神科学の垣根が取り払われることになります。ついに私たちは、宇宙のすべての仕組みを垣間見る可能性を掴んだのです。こういうことを知ることによって、私たちは、自らの生気体を宇宙の生気体に直結させた生き方をすることができるのです。それはとりもなおさず、私たちが宇宙の存在(いのち)によって癒される生き方を知るという結果になるのです。
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei16/shimpo_159.htm


: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:51:06



布置は

7月31日の朝に ちょっと霊的な夢で、

何かおおきな河?水辺?
のむこうの
すごい緑色の崑崙山の山の斜面

を見ました。そのあとは別の山の中の
どこか(ヒマラヤか何かの中?)

にある
建物(の中にいる自分とか)がみえました。

※そこに、亡くなった身内もいました。


で、

また崑崙山の緑の斜面が
見えた最初の場面にもどって、

またそのそばの山の中のどこかの
建物(公共の建物ぽい)
の中にいる、

ってかんじの夢だったのですが、



朝おきて考えてみたら、


寝る前に

何か龍の形ってどんなんだっけ、
て思って

とりあえず

ドラゴンボールって内容
ほとんどしらないんだけど
(ものすごくおおざっぱ
にはしっている)

その
キャラの

シェンロン(神龍)
というキャラの
絵をみてからねたんですね。


布置は地名とか詳しくないので

崑崙山とかよくしらないのに
夢にでてきた。

で、
しらべたら

崑崙山てのは
軟玉が取れる土地で、
仙人の住処だとか、

伝説のシャンバラは
その崑崙山の奥にある
(グルジェフ?)

とかいろいろあったようです。;

んで、


その夢の緑の斜面の崑崙山なんて
実際にあるのかしりませんが、


とにかく
シャンバラって
まあ弁慶(アストラル体)


「鞍馬寺のあれは
たしかに
伝説のシャンバラみたいなものだけど
シャンバラって名前ではないよ」

なんていってるんだけど、
崑崙山が霊的な夢?で見えたのだから、
なんか
そのあたりの龍脈も関係あるかもしれない。

で、
神龍のシェンロンとコンロンと
なんか似てるね発音も。

ロンて何だ?龍?だっけ?

ま、それは後でしらべるけど、、

それが気になってたら

水屋神社に、
義経が
みた瑞雲の八幡さんの
旗がらみの八幡の額があると
わかったのです。

まあ、

義経は
興福寺と関係あるのですが

水屋神社も
興福寺と関係あるそうで、
興福寺はまあ東大寺の
ライヴァルというか
なんか仲間なのか
ライヴァルなのか

しりませんが、


御水送り~オミズトリと青衣の女人(は義経だ!)
って前回は東大寺(毘盧遮那の遮那は
遮那王だからそれも義経と関係)の
話してたので、

そのオミズ送りって
水屋神社が春日大社(春日大社も義経と関係ふかいようだ。)
にたいして
おくるって事をやってたそうで。

しかも龍神信仰もあるそうだし

龍がナーガだから象なのか
ガネーシャのネタなんかも
水屋神社の記事にはあって

(聖天は直接関係あるのかないのか。
十一面で関係するのかな?)


まだ
だから何なのかよくわかんないけど、

とにかく

オミズ送りって
記事を全部まじめによんでたら

途中で、
義経が瑞雲の中に八幡旗をみてその
関係の八幡の額があるんですよ、

とか、、、そういう記事がでてきたんですね。
ついさっき。

これは

むー

八幡といえば

宇佐八幡で東大寺(オミズ取り)関係ですからねこれも。
若狭の御水送りは何なのかよくわかりませんが、

布置の以前の霊夢では
3・11って霊的にものすごく
オミズ取りに関係あるらしくて

てことは
今回でてきた
水屋神社の義経関係の資料も
なんか意味あるのかも、、

とおもいましたね。

で、
水屋神社の龍神ってのが
なんか

朝の霊夢ぽい夢でみた崑崙山のシャンバラー
ぽいネタ
あたりまでつながっちゃうのかもしれません。






義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:54:05



ただ、布置って

ほんと地名音痴なので

崑崙山なんて
きいたことはあるが
スっとでてこない地名なんですよ。


んで、

最近
ウイグル問題で俺、さわいでるんだけど


ウイグルのあたりも崑崙なんですね、、


で、シャンバラーとか

仙人の玉と関係あって

玉といえば龍だもんね。


なんかあるでしょうね。


で、

水屋神社の御水とりは
よくわかんないけど

春日大社って
藤原氏系だからなのか、
すごい義経モエで
義経関係のあやしいグッズいっぱい
もってるんだよね。
あそこ

関係ないけど
賢治も
フジってつく人だし
藤原氏系なのかも?しらんけど。
京都からながされて
東北で繁栄してる、
とか奥州藤原氏みたいなやつだね。


で、
藤原氏とかこういう
崑崙山なんか関係あるのかもルーツとして。
しらんけど
おもいつきでいってみました

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:56:33


源氏の人って
いつも

雲が、、八条の、、これは吉兆じゃ、、

とかそういうの先祖代々だよね。

なんだろう

ヤマタノオロチみたいな。


で、辞世の句
ってのが
義経記だからアレだけど
本人のタマシイが
あれは
辞世の句とか
そのあたりはホント
ていうので

布置もそうなんだー
だからよく大事な場面で
ヘンな彩雲がでるんだねー

なんておもってるんだけど

紫雲ってのも
やっぱ雲だし、

なんか雲すきなのかね源氏は。


義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:03:11


ま、義経の辞世の句は
仏教くさいけど紫雲なわけよ。


で、
水屋神社が
合祀した
義経の八幡系の額の由来は

「義経が吉兆の雲をみたから。
そこに八条の旗がみえたから八幡をまつった」

とか

八幡は
東大寺のあれでしょ。
(手向け山八幡)

神輿にのって
宇佐からウサ八幡が
東大寺にきたぐらいでしょ。

んだから
なんかオミズ取りとかって
何なのかなーと思う。





> ★源義経が、
文治の頃、吉野の山を出て
★伊勢神宮へ参詣の途次、赤桶の相模峠にさしかかるやいなや突然黒雲が起こり、
★八幡の旗が雲の中より翻ったといいます。
義経はこの吉兆に喜び、
そこに
★八幡社(後の★相模神社)を建立したと伝わっています。
★明治時代の末期にこの神社は
赤桶の秋葉神社や作滝の滝野神社などと共に
★水屋神社に合祀されました。


あと話とぶけど

日月神示とかって
大本裏神業の
北伊勢ってのを重視してたよねそういや。


で、コモノって土地には

伊勢三郎の首塚があるとか、、


あと、


弁慶の熊野の別当家って

熊野では速玉なんかとも
関係あるんだろうけど、

伊勢の外宮と関係あるらしいよ

だからコンちゃんじゃん。

で弁慶の田辺と
空海のコンちゃんいや人間のジイさん
なんだろうけど、
田辺って伏見の稲荷の
ルーツっていうか稲荷信仰とたぶん関係あるでしょ


義経は
群馬の冠稲荷にも
伊勢野?
とかいう
ナゾのとちでひろった
お稲荷さんを
もっていって
洗ったり、
伏見稲荷の
分霊?みたいなものを
まつったりしている

んだけど
伊勢三郎も伊勢だからね、
で弁慶も
伊勢の外宮の筋で考えると伊勢も関係あるんだよね。




義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:21:15

水屋神社

正八幡宮額

 水屋神社の拝殿に「正八幡宮」の額が掲げられています。
「源義経が文治の頃吉野の山を出て伊勢の神宮へ参詣の途次、今のサガミ峠にさしかかるや突然黒雲が起こり、八幡の旗が雲の中よりひるがえった」(勢陽俚諺)といいます。義経はこの吉兆に慶び、ここに八幡社を建立したと伝えられています。明治四十年、水屋神社に合祀されました。

むささび
水屋神社
 境内には多くのむささびが棲息しています。人懐っこく、夕暮れ時に現れます。
http://www.mizuya.org/06_keidai/keidai.htm

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:24:08

宮前からめづらし峠を通って赤桶への『旧道』は、赤桶地区の人にとって通学時の思い出がいっぱいある懐かしい道だと思います、その旧道に「道行谷」という案内板が設置されているそうです。

吉野を逃れた源義経と静御膳が通ったという伝承があると書かれているようですが、義経と静御膳は吉野で別れたことになっています。?・・。判官びいきの日本人ですので各地にこのような伝承があるのもまた義経にたいする想入れのあらわれだとおもいます。



 川俣谷にも、義経にまつわる伝承がいくつかあるそうです。 水屋神社に合祀されている八幡さんは、義経が吉野から伊勢神宮に参詣するため赤桶を通りかかったとき吉兆があり勧請したものということです。

 道行谷を静御膳と一緒だったということはないにしても義経、弁慶が吉野からの逃避経路として人目をのがれて高見峠を経て東のほうへと義経の頭に浮かんだ可能性もまったくなくもないというところでしょうか。



道行谷

http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/4fa9208c0fefcdfdc249c25d47b6cdb7



水屋神社の義経伝説

 http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/e3ef865469f5af7b77e87efffbbc7fd3



源義経

http://www.bashouan.com/jtYoshitune02.htm



宮前からめづらし峠を経て赤桶までのバイクによる通り抜けの動画

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Ag6mos5pUXU





北畠の治世と信長の伊勢進攻

(【中世城館と北畠氏の動向】下村登良男氏、【北畠氏と修験道】田畑美穂氏、【信長と伊勢・伊賀】横山高治氏を参考にさせてもらっています)



中世に入り武士により政治がおこなわれるようになりましたが、1334年 後醍醐天皇が朝廷による政治を復権しようとし建武の新政(けんむのしんせい)を始めました。しかし二年後の1336年足利尊氏の離反により崩壊し、後醍醐天皇は吉野に移り南北朝対立の時代が始まります。

 

 そのころ南朝方についた北畠親房(きたばたけ ちかふさ)は、伊勢に入り玉城に田丸城を築きここを軍事拠点として南伊勢を支配するようになります。そして三男の顕能(あきよし)が伊勢国司に就任します。南朝方の城々を潰そうとする北朝軍との攻防の末 1342年顕能は、伊勢本街道筋の一志郡美杉村の多気(たげ)に本拠を移し 西に65キロの吉野、南に40キロの伊勢神宮を守り室町幕府に対抗し南朝を支えます。

 

 田畑美穂氏によると北畠氏により伊勢平野で取れた一志米は中村川をさかのぼり白口峠から多気、そして庄司峠を越えて和歌山街道(赤桶)に出て 高見峠を経ておそらく吉野へ運ばれたのであろうし、また魚と塩は南島町古和浦の古和浦一族から宮川村の「太陽寺」(湯谷峠)、を経由して和歌山街道(富永)に入り高見峠越えで吉野に送られたものと思われると述べております。このように川俣谷は六十年間にわたり南朝を支えた「米の道・塩の道・魚の道」だったようです。



多気御所と庄司峠(赤桶)の荒滝不動尊


 多気御所へは飼坂峠、櫃坂峠、白口峠、などいくつかの峠道より出入りすることになり庄司峠もそのひとつでした。



 北畠氏が多気に霧山城を築いたさい庄司峠鎮護のため赤桶に荒滝不動尊を奉祀したと伝えられています。



 修験 行者による北畠氏の情報網の中継地点だったと考えられます。https://miyacyu.jimdofree.com/%E5%AE%AE%E5%89%8D%E6%9D%91%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%BF%91%E9%9A%A3%E3%81%AE%E3%82%80%E3%81%8B%E3%81%97%E2%85%A2/

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:40:00



 水屋神社の斎館に「正八幡宮」の額が保管されています。

「源義経が文治の頃吉野の山を出て伊勢の神宮へ参詣の途次、今のサガミ峠にさしかかるや突然黒雲が起こり、八幡の旗が雲の中よりひるがえった」(勢陽俚諺)といいます。義経はこの吉兆に慶び、ここに八幡社を建立したと伝えられています。

明治四十年、水屋神社に合祀されました。


相模神社(跡)

(1)鎮座地 松阪市飯高町字赤桶片栗子二二八番地の一

(2)由緒

御神体二座。左ハ
★八幡宮御形石、
右は
神功皇后御形石。

拝殿、 延宝八年(一六八〇)拝殿一宇洪水にて流れ申候鳥居一宇只今は無御座候。

当社申伝に文治年中(一一八八頃)源義経
★吉野山に籠り給い霊夢を蒙り給ひ、潜に太神宮へ参宮の節

★霊夢により相模峠に一連の★黒雲棚引いて雲の中より白旗一流れ出で
★虚空に声あり

★義経に神託有て
★義経畏って此処に八幡宮を勧請と申伝候。天正之頃迄は閼伽桶之城主佐々木氏寄付之社にて御座候由に候え共当城も天正五年(一五七七)に落城致候由申伝候。

 相模峠に古木之松御座候。是昔義経に神託有此処にて「★影向之松」と申伝候。

 祭日正月十五日、八月十五日神事にて御座候。瀧本杢允御扉開き、御酒、御供を献上仕り祝詞祓を致し勤仕、神事を相勤申候。参詣人鉄炮的仕候。山神十六座の内七座は少の小社に御座候内一座は一言主社、一座は高津社と唱申候。九座は小社無御座候。右之通御改付差上げ申候。以上。

享保十年(一七二五)七月
https://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/94b7e3f97274a3c738160be69fb851ef



あれ??

霊夢は吉野でみたの??

なんかよくわかんないな

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:51:20

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B0%B4%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E6%AB%9B%E7%94%B0%E5%B7%9D&tbm=isch&ved=2ahUKEwiyibmN-PfqAhXPBaYKHfvoCUoQ2-cCegQIABAA&oq=%E6%B0%B4%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E6%AB%9B%E7%94%B0%E5%B7%9D&gs_lcp=CgNpbWcQAzoCCAA6BAgAEBhQ7csPWO_aD2Cg4A9oAHAAeACAAdgBiAGvC5IBBTMuOC4xmAEAoAEBqgELZ3dzLXdpei1pbWfAAQE&sclient=img&ei=fkokX7LSFM-LmAX70afQBA&bih=662&biw=1428#imgrc=5S3RQL7O2BFTsM



布置が
霊夢でみた

「河の向こうの崑崙山」てのは
どうも

「櫛田川と水屋神社」
で検索してでる画像なんかに似てるようだ。

山は何なのだろう

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:02:47

鞍馬寺、太郎坊、
伊勢神宮、水屋神社、吉水神社、
「興福寺・東大寺・春日大社」


https://www.google.co.jp/maps/dir/%E5%90%89%E6%B0%B4%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92639-3115+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%90%89%E9%87%8E%E9%83%A1%E5%90%89%E9%87%8E%E7%94%BA%E5%A4%A7%E5%AD%97%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B1%B1%EF%BC%95%EF%BC%97%EF%BC%99/%E6%B0%B4%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92515-1505+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E9%98%AA%E5%B8%82%E9%A3%AF%E9%AB%98%E7%94%BA%E8%B5%A4%E6%A1%B6%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%90%EF%BC%97/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%81%E3%80%92516-0023+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B8%82%E5%AE%87%E6%B2%BB%E9%A4%A8%E7%94%BA%EF%BC%91/%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%9D%8A%E5%AE%AE+%E9%98%BF%E8%B3%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92527-0091+%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E6%9D%B1%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%B0%8F%E8%84%87%E7%94%BA%EF%BC%92%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%97/%E9%9E%8D%E9%A6%AC%E5%AF%BA%E3%80%81%E3%80%92601-1111+%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E9%9E%8D%E9%A6%AC%E6%9C%AC%E7%94%BA1074%E7%95%AA%E5%9C%B0/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E3%80%81%E3%80%92630-8213+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%E7%99%BB%E5%A4%A7%E8%B7%AF%E7%94%BA%EF%BC%94%EF%BC%98/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%80%81%E3%80%92630-8211+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%E9%9B%91%E5%8F%B8%E7%94%BA%EF%BC%94%EF%BC%90%EF%BC%96%E2%88%92%EF%BC%91/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92630-8212+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%E6%98%A5%E6%97%A5%E9%87%8E%E7%94%BA%EF%BC%91%EF%BC%96%EF%BC%90/@34.7822005,135.9625333,8.67z/data=!4m50!4m49!1m5!1m1!1s0x6006c635efccd121:0xea4b6bf5958e60dd!2m2!1d135.8619444!2d34.3672222!1m5!1m1!1s0x6004226e0da3737f:0xad67ac56035bc652!2m2!1d136.3158713!2d34.4348153!1m5!1m1!1s0x600450ebdf9f37f3:0xf009663753f60ca7!2m2!1d136.725793!2d34.45501!1m5!1m1!1s0x60017d3d43ed5d6f:0x1f0edf9da86f3c8!2m2!1d136.1827174!2d35.1180336!1m5!1m1!1s0x6001a612b377319d:0x50283
d7e45708438!2m2!1d135.7708382!2d35.1179385!1m5!1m1!1s0x60013988b23decb3:0x11830f4737834593!2m2!1d135.8322271!2d34.682883!1m5!1m1!1s0x600139907a0876dd:0xf890ac3f9dd53c8f!2m2!1d135.8398158!2d34.6889851!1m5!1m1!1s0x600139c06bb06ad5:0x4c97e78382e39596!2m2!1d135.8483856!2d34.6813804!3e0?hl=ja

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:05:44



崑崙山脈とかって
鞍馬寺とかのほぼ真西ってかんじだね、、

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:16:45

シャンバラとは 崑崙山脈の彼方に
https://www.youtube.com/watch?v=mugavRkpbI4




で、
ウイグル人のいるあたりなのか
よくしらないけど
崑崙山がどーとか

シャンバラのネタは
鞍馬寺、

で、鞍馬寺て貴船とゴチャなので

まあ水の信仰というか、
水でつながるんだけど、

風水みたいなメセンでみると
ようするに

龍脈とか龍の道とかの関係で、

崑崙からきた龍が
エネルギーの源


なのかもしれないけど



ま、


こないだは
熊野(速玉の神倉のゴトビキ岩と、花の窟)

だったでしょ、

その次に阿賀の太郎坊の天狗
(鞍馬の魔王尊のモトネタ)
に話題がポーンと
とんで、お茶を念力で奉納しましたら、

次、
今回の「水屋神社(の西にあった義経が
まつった八幡系の神社)」

にとんでるんだけど、


地図でみると

ほぼ南北に、縦にならぶんですね。



だから
やっぱりこう、

Aのネタ、Cのネタ、Bのネタ、

とか土地がらみででてくると

ABCが一直線、なんて
こういう事がおおいですよ


やっぱり土地にながれる電気とk
地球の南北の磁力にそってわかってゆくというか




義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:26:40

宮前でも源平合戦があった

 壇ノ浦で源平の戦いがあったころ(1185) 伊勢で反源氏の兵を挙げた平信兼(たいらののぶかね)という武将がいます。

 信兼は伊勢国鈴鹿郡関を本拠地としていましたが 元歴元年(1184)伊勢、伊賀で一族を糾合して源氏に戦いを挑みます。【源平盛衰記】には「九郎判官義経は和泉守平信兼が伊勢国滝野という所に城郭を構えて西海の平家に同意すると聞て、軍兵を指遣し是を責」とあるそうです。



 信兼が義経の臣伊勢三郎義盛に攻められ自刃したと言われる滝野城とは飯南町有間野の「こんぴらさん」にあった山城で【飯南郡史】によれば郡内では最も古い城ということです。(下図で高城とあるところです)

 【花岡社日天八王子略記】という宮前の花岡神社由緒記に 当社の南の山の頂に平信兼が城郭を構て伊勢三郎義盛が当社の辺(ほとり)に陣を構へと書かれているようですので源氏の陣地は花岡神社の近くにあったということになります。


水屋神社に合祀されている八幡さんは、義経が吉野から伊勢神宮に参詣するため赤桶を通りかかったとき吉兆があり勧請したものということです。

 道行谷を静御膳と一緒だったということはないにしても義経、弁慶が吉野からの逃避経路として人目をのがれて高見峠を経て東のほうへと義経の頭に浮かんだ可能性もまったくなくもないというところでしょうか。
https://miyacyu.jimdofree.com/%E5%AE%AE%E5%89%8D%E6%9D%91%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%BF%91%E9%9A%A3%E3%81%AE%E3%82%80%E3%81%8B%E3%81%97%E2%85%A2/



水屋神社
千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。その後、大化4年(648)奈良の三笠山から素盞鳴命、龍神姫命を勧請す。和銅3年(710)興福寺東門院領「閼伽桶の庄」となり

龍神姫命
(龍神さま)
閼伽桶の井の主祭神


春日の神と議って川中の巨石を以って伊勢・大和両国の境とした。この話は、隣接する滝の郷が神宮内宮の御厨であるという「神鳳抄」の記事を考えあわせると、

★当社が興福寺領の西端を、

滝野郷が内宮領の東端を示すものとして注目される。
http://www.mizuya.org/04_gosaijin/gosaijin.htm




うーん

あと東大寺だから
やっぱり、

御水取りで青衣の女人、
ででたんでしょうね。



弁慶は
この水屋神社にかんして

義経(布置)にたいして

れいの青衣のオンナとか

弁慶「そこの女か稚児!}
とか


水屋神社が水だから
陰陽道的な意味で
またオンナとか「女子力!」
的な事を強調してつたえてきます。

で、なんか
静に義経がやった鏡を
このあたりでうばいかえして
きたようです。

で、お前(義経)がオンナやれとかいってます。


てやんでい

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:31:10


飯高町の水屋神社
帰りに、「車馬乗入禁止」の看板の裏側を見ると。。。

織田信長軍 敵味方鎮魂祭

VS

北畠具教軍 地球平和祈願祭

って書いてある。


むすび桜
根はひとつですが、途中からに2本


杉がナナメに成長しているのが昇龍楠です。
龍が空にのぼっていくかのような迫力のある杉

https://matsusaka-2shin.com/iitaka-mizuyajinjya/


義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:36:52

日本で唯一、フランスに分社があるという『水屋神社』は、

三重県松阪市 飯高町赤桶という奈良県境に近いR166沿いにある『大きな赤桶』の向かいにあり、

お水まつり & お水取り(春日大社へ)の特殊神事、

ご祭神『龍神姫』など『水』との関連

『あの綺麗な川には龍神が棲んでいると心から思えますよ〜!』と


櫛田川に下りて行くと、

そこには、エメラルドグリーンの水 & 水面に青空が揺らめく、とっても綺麗で素敵な渓谷があり、

あまりの素晴らしい景色・空気

最後は、境内に戻り本殿右手のクネクネと天に昇るような姿形
昇龍楠
https://ameblo.jp/ooharaekotoba/entry-12190169958.html

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:41:15

水屋神社
千数百年前、大和の春日大社より天児屋根命を奉祭したのを創始とし、その後大化四年(648)大和国三笠山から素盞鳴尊、龍神姫命を勧請。和銅三年(710)奈良、興福寺東門院領「閼伽桶の庄」となり水を奈良へ運んだようです。


川岸の上には和歌山街道(紀州街道)が通っていて、伊勢参宮の道であるとともに、紀州の殿様が江戸と和歌山を行き来するのに使った道で、殿様の行列が通る際は付近の村々から人足を調達してこの峠を越えたという難所です。  珍布峠には昔々、伊勢の神様と春日の神様が珍しくもここで出会ったという伝説があり、

険しい山道をふさぐ巨岩を削り取った

切り通しの景観は圧巻です。
http://matsusaka-machiaruki.jp/category/%E6%B0%B4%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE/



もしかしたら

フランスにもあるってことで

ランボー兄弟時代の弁慶分霊との問題を
ここで回収できそうってことなのかね。

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 02:45:11

2007年05月09日

水屋神社分祀社「和光神社」をフランス・ブルゴーニュ地方ラ・モンターニュ村真言宗寺院・光明院様のお導きにより、その敷地内に無事建立させていただきました。

日本の、伊勢の、山奥の村の小さな鎮守様が神社本庁下の神社として、フランスはもとよりヨーロッパ史上初めて建立させていただくという、あまりにも重く、大きいお役を引き受けさせていただきました。
https://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/93b369f2278d7c52d225aa2f7d0ce485




つまり

義経→そのまま詩人ランボーに転生
→そのままジェスに転生(死産)
→そのまま布置に転生


なんだよね。
で、
弁慶はそのままエルヴィスではなくて
分霊みたいなもので
いわば多重人格というか
別人格なんだけど、
フランスでは
ランボーの兄だったわけですよ。



で、ランボーは「渇きの喜劇」なんてかいてて
いつも
水が飲みたいけど飲めないとか

なんか
のませてくれ、とかいってる

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 11:19:14

天児屋根命の神名
天児屋命(あめのこやね)>>>古事記
天児屋根命(あめのこやね)>>日本書記
春日権現(かすがごんげん)
春日大明神(かすがだいみょうじん)

「コヤネ」は、「小さな屋根」すなわち「小屋」。「天上の小屋」に居る神となるが、面白くない。

「コヤネ」を「言綾根」と書くと、「天上の美しい詞(ことば=祝詞)」の神となる。こちらの方が記紀で描かれる姿に合致する。

天児屋根命の神格
天児屋根命は、天岩戸に隠れた天照大神を呼び戻すために、日取りを占い、祝詞を奏上した神である。

よって、

託宣の神
祝詞の神

後裔から、宮廷祭祀をつかさどる中臣連が出てくる。さらに国家権力の頂点に君臨することになる藤原氏が、、、




天照大御神は、天石屋戸を開けて中に籠もってしまいました。


天兒屋命(アメノコヤネの命)と布刀玉命(フトタマの命)を呼び出して、天香山(あめのかぐやま)の雄鹿の肩の骨を抜き、天香山の天之波波迦(あめのははか)の木をとってきて、その雄鹿の肩を天之波波迦で焼いて太占(ふとまに)をさせました。

また、天香山の五百津眞賢木(いほつ まさかき)を根っこから掘ってきて、上の枝には八尺勾玉(やさかのまがたま)のたくさん連なった玉の緒で飾り、中の枝は八尺鏡(やあたのかがみ)で飾り、麻や楮の皮を晒したものなどで飾り付けました。

布刀玉命がこの飾り付けた賢木を捧げ持ち、天兒屋命が厳かな祝詞を唱え、天手力男神(アメノタヂカラヲの神)が岩屋戸の脇に隠れ
https://spiritualjapan.net/16656/

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 11:28:38

天皇を名乗ったのは、武則天の夫李治のみです。つまり、この列島に天皇制が誕生したのは、唐王朝の支配がこの列島で確立した大宝律令以後です。
 そして、この列島を征服した唐王朝の勢力は、支配者としてこの列島の人々を奴隷の如くに隷属下に置きます。そして、自らの勢力をこの列島の人々と分けるために氏姓制度を導入しました。そして、唐(藤)を源(原)としているという意味で、彼らは藤原氏を名乗りました。ちなみに、中臣とは、「中」国の家「臣」です。さらに、藤原氏は各地に荘園領主として派生していき、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤、王朝を補佐する佐藤といった名前が広がっていきました。また、その多くは、あ~さ行に集中しています。
 中臣鎌足が、藤原姓を授かったのが天智天皇だとされているのも、「天智」は、唯一「天」皇を名乗った第3第皇帝李「治」、李治を意味していることに起因しています。また、天武天皇は、唯一天后を名乗った李治の皇后「武」則「天」を同様に意味しています。
 その唐王朝も907年朱全忠に滅ぼされこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院で保管されています。そして、彼らは、再び大陸を支配下にしようと、秀吉の時代、あるいは明治維新以降大陸へ侵略していきました。「唐王朝再興」それこそが、彼らの存在意義です。そのことは、古事記で因幡の白兎のお話として残されています。『この列島の人々を騙して再び大陸の支配者として舞い戻れ。しかし、決してそのことは口にするな』というのがそこに秘められたメッセージです。ですから、彼らは、天皇や藤原氏が何者なのかも、自らの本性も思惑も一切口にしません。また、唐王朝がこの列島を占領・征服したことも、再び大陸を支配下にしようなどと思っていることも秘匿したまま、彼らにとって都合の悪い歴史や理念や勢力を抹殺しようとします。今の執拗な憲法改定の動きも、君が代の強制もその動機に基づくものです。そして、彼らにとって都合の良い歴史だけを残そうとします。http://kodai21-s.sakura.ne.jp/gimon-hu-2.html

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 11:42:33




■ヤドカリ一族・藤原氏。カッコウ一族・藤原氏。他者になりすまし、パクるのは藤原氏の十八番。パクったのは継体王朝の「天皇家」の名前だけではなかった! 清和源氏までパクるとは! 藤原系政治家の会である自民党の「清和会」という名前!



 自民党の「清和会」(森喜朗―小泉純一郎―安倍晋三を含む)は、清和源氏とは無関係なのに、清和源氏から「清和」の名前をパクったのではないのか? 鳥羽天皇以降の藤原氏の血筋の天皇家が、継体王朝とも桓武王朝とも関係ないのに、「継体王朝=桓武王朝=藤原の血筋の天皇家」ということにして、ありもしない「万世一系の天皇家」を騙(かた)っているのと同じだと思う。


王、王族の戦争時の死亡率は非常に高い。

単なる兵も高い割合で死@のだから、当然だ。

それが本物の王家、王族だ。

しかし、藤原氏は戦の時には、「藤原氏と天皇家は血筋が尊いから、

先頭に立って戦って高い割合で戦死するなんて、とんでもない」と考えている。

戦の時に先頭に立って戦う人間ならば、いつかは、「戦は嫌だ、平和がいい」という自然な考えを持つようになる。しかし、藤原一族は、自分達は仇討ちのために日本を戦争に引きずり込んでも、「死ぬのは血筋の卑しい日本土着民の役目だ」「血筋の尊い百済王族の自分達は、戦争になっても安全圏にいていい」と考えているようだ。自分達の仇討ち戦争のためのくせに。。。だから「お国のために死@、死:ね」「美しい日本」だのと戦前・戦中に言ったのと同じような綺麗事を言って、大和民族を騙し、自分は絶対的な安全圏に身を置きながら、日本を盛んに戦争に引きずり込もうとしているようにしか、見えない。決戦直前に逃げ出した、

藤原氏の祖・鎌足 こと 百済王子豊璋と同様、卑劣だ。


1300年経っても、藤原氏の直系子孫の性質は変わらない。

また、天皇家が万世一系というのも藤原氏が作り上げた大嘘であり、今の天皇家は約900年前の藤原氏による赤ん坊すり替えによって、藤原氏の分家の血筋となっており、その後は、しばしば、藤原氏は天皇、皇族を自分達の都合のいいように、血筋をごまかしてすり替えているようだ。


約900年前の鳥羽天皇の代から、天皇家の性質が急に変わった。それまでは、頭が良くて天皇としての責務をちゃんと果たそうと考え、藤原氏の横暴を抑えようとして藤原氏と対立する、一条天皇や後三条天皇のような人が割と多かったのに、鳥羽天皇以降は、自分の身の保身が一番大事で、藤原氏と密着して妙に馴れ合った、それほど頭のよくない人が多くなった。そのために、朝廷勢力は衰えて傾いたと考えられる。また、明治天皇は、大和民族からの政権奪取の大仕事のために、例外としていつもと違って逆にいい人物を選んですり替えたらしいが、この明治天皇(大室寅之祐)のすり替え疑惑も有名だ。

「(約900年前からの)天皇家の血筋 = 藤原氏 = 右翼」であり、「藤原氏 = 唐、新羅にいまだに恨みを持って、日本土着民の命を使って、恨みを晴らそうと企む、百済系朝鮮民族」だ。これが天皇制の正体だ。藤原氏が「天皇家の血筋が尊い」というのは、「今の天皇家は藤原氏の血筋だから尊い。それ以前の天皇家の血筋は藤原氏よりも劣っている」という意味だろう。だが、そもそも、血筋に貴賤などない。二重の意味で嘘だ。

 その藤原氏の野望を打ち砕く使命を持っているのは、藤原氏同様、長い歴史を持つ清和源氏の一族の末裔である私達だと自負している。


天皇制を強化して日本を再び戦争に引きずり込みたい藤原氏と、日本と世界の平和を守りたい清和源氏の戦いは、どちらが勝利するのか?

 私は何年も前から一生懸命、藤原氏と天皇制の正体と危険性に気付くよう、世に広く呼び掛けている。徐々に広がってきたのか? 我々以外にも、藤原氏と天皇制の正体を広めている人達は多そうだ。この世には尊敬する方々が一杯おられるが、それらの方々もそのような方々の一部だ。







■藤原氏はユダヤ人かつナチスのようなもの。ユダヤ人きどりの百済系朝鮮民族・藤原氏。藤原氏のホロコースト対象は、大和民族をはじめとする日本土着民



私は藤原氏と天皇制の正体を述べた色々なチラシを印刷して配ったが、反応が悪い。日本のことを真剣に考えて色々活動している人達はところどころに少数はいるようだが、なにしろ、そのような人達の割合が非常に少ない。ドイツ人やイギリス人のことを本で読むと、彼らは頭がよく、非常にしっかりしていて、政治に対する態度も日本人よりもずっと優れている。「日本は、武士階級はしっかりしているが、庶民は従順でおとなしく、権力者の言いなりだから、武士階級さえいなくなれば、いくらでも日本人を自由自在に支配できる」と外国人が言っていたと、どこかの本で読んだことがある。(正体を隠した侵略者)百済系朝鮮民族・藤原氏もそのように考えて、明治維新以後、武士階級を朝敵として散々に殺しまくり、また、戦争を通じてわざと優秀な日本兵(元武士階級を含む)を大量に無駄死にさせ、遂には、日本を支えてきた武士階級の最も優秀な人達をほとんど皆殺しにすることに成功したのではないだろうか。本来ならば、武士階級に当たる人達が日本をひっぱっていくべきなのに、明治維新以後、正体を隠した百済系朝鮮民族・藤原氏(維新政府)に、戦争を利用して大量に殺害されたせいで、ほとんど、いなくなってしまったのではないだろううか。ナチス・ドイツがユダヤ人をホロコースト(大虐殺)したのと同様、百済系朝鮮民族・藤原氏は明治維新以降、日本人を支配するために、日本の武士階級をホロコーストしたと思う。しっかりした日本人(仲間)が極めて少ないことも、そのためであるとしっかり認識すべきだと思う。



2012年12月16日に行われた衆議院選挙では自民党が圧勝し、平成に入ると同時に起こった日本の右傾化は、益々酷くなりつつある。近衛文麿と対立していた、民主的な昭和天皇と違って、今の天皇は軍国主義推進者達の大きな助け舟となる存在になっていると思う。昭和天皇は国民からの支持率が高かったが、今の天皇は低い支持率を宮内庁による言論弾圧により隠蔽してもらって天皇をやっていると思う。今の天皇は、右傾政治家の安倍晋三首相と非常に仲がいいようだ。小泉純一郎氏が首相の時に女帝法案を提出しようとした際(2006年2月)、安倍晋三氏が秋篠宮紀子妃の妊娠を小泉氏に告げて急遽、それを阻止した。安倍晋三氏の取った行動は、男系にこだわり、女帝法案成立を望まない今の天皇の強い意を受けてのことだ、という説があった(あるいは、秋篠宮の長女眞子内親王が女帝になることは賛成でも、皇太子徳仁親王の長女愛子内親王が女帝になることは反対という、得手勝手な天皇の意を受けてのことだ、という説もあった)。また、「安倍晋三首相が前回(2007年9月)退陣した時に、今の天皇がガクッとしたところを偶然テレビで見た。よっぽど天皇と安倍晋三氏は仲が良かったんだんろう」と家族が言っていた。また、天皇は次の福田康夫新内閣の認証式をすぐにせずに、なぜか1日延ばしてみんなを待たせた、という記憶がある。仮に、今の天皇が自民党の安倍晋三首相と、天皇を君主に戻す相談をしていたとしても、驚かない。昭和天皇は側室制度復活を阻止したのに、今の天皇は宮内庁とグルになって側室制度を復活させた疑惑がある。秋篠宮は女優の加茂さくらの子という根強い噂がある。「本当に民主的で誠実な天皇だったならば、果たして、側室制度などを陰でこっそりと復活させるか? 天皇制支持率を隠蔽させるか? 表面上、民主的なふりをして、これらのことをカモフラージュしているだけではないのか?」 これらのことをよく考える必要がある。言論弾圧・思想弾圧もどんどん酷くなり、戦前・戦中の反民主主義的な軍国日本に戻りつつあるようだ。戦争を体験した多くのお年寄り達は心配しているようだ。



天皇制の問題点は、①天皇制の支配者・藤原氏が邪魔な皇族、逆らう皇族をいじめたり、濡れ衣を着せたり、暗殺したり、すり替えたりする特権を持っていること、②天皇制の隠された真の目的が、「百済系朝鮮民族藤原氏が大和民族を騙して支配すること」、いや、それどころでは済まず、「天皇制を利用して日本を戦争に引きずり込んで、わざと下手な戦略を取って大和民族を大量に殺し、日本列島を名前は『日本』のままで、中身を『百済』系朝鮮民族の国にしてしまうこと」であること、③天皇家が万世一系というのは大嘘で、約900年前の藤原氏による赤ん坊すり替えによって、鳥羽天皇の代から藤原氏の分家の血筋にかわってしまったこと、だ。③よりもむしろ、①と②が致命的だ。天皇家は、名前は天皇家のままでも、中身は藤原氏の分家の血筋だ。すり替えが取り沙汰されている明治天皇の血筋については、色々な説があるので、下手をすれば、藤原氏の分家でさえなく、百済系朝鮮人であること以外、不明である。それと同様、日本という国家も、名前は日本のままでも、中身は百済系朝鮮民族によって乗っ取られてしまうだろう。既にかなり乗っ取られている。マスコミなどは(恐らく百済系)朝鮮人に支配されているようだ。右翼も、今ではほとんどが朝鮮人だそうだ。政治家も、森、小泉、安倍など、自民党をはじめ、百済系朝鮮民族の日本人が、日本国民全体の人口に比べると、極めて高い割合でいると思われる。



「藤原氏、皇族、政治家達などの中の、大和民族の仮面を被って正体を隠した百済系朝鮮民族」は、自らをユダヤ人にたとえたり、ユダヤ人のように選民意識が強かったり、ユダヤ人気取りだったり、ユダヤ人のように祖国を再建する気満々だったりする、と私は思う。2600年位前(紀元前586年)に祖国ユダ王国を失って奴隷にされバビロンに囚われ、流浪の民として苦労してきたユダヤ人がイスラエル建国(1948年)に大変な抵抗を受けてきたことを見て、「まともに正体を明かして祖国・百済国(660年滅亡)を再建するよりも、お人好しの大和民族を騙して戦争に引きずり込んで殺した方が、簡単に日本列島を乗っ取れる。天皇家を藤原氏の血筋で乗っ取ったように、日本も乗っ取ろう」と考えて、実行しつつある、それが近年の自民党タカ派(彼ら)による、日本の再右傾化の正体だと私は考えている。

ユダヤ人は祖国を失い、奴隷にされて流浪して苦労したが、藤原氏らは日本に帰化して、特権階級となり、天皇家を滅ぼして乗っ取り、万世一系の天皇家だと大嘘をつき、大和民族を騙して甘い汁を吸ってきた。しかも、ユダヤ人とは異なり、朝鮮半島には同じ朝鮮民族の韓国、北朝鮮もちゃんとある。それなのに、更に強欲ぶりを発揮して、日本列島上のお人好し(やっぱり、ほとんど馬鹿?)の大和民族を滅ぼして乗っ取ろうとしている。彼らは、ユダヤ人気取りで、ユダヤ人がイスラエルを建国した真似をして、日本列島の上に、百済国建設をもくろみ、実行しつつあるが、ユダヤ人と比較にならないほど、邪悪だ。ユダヤ人はナチスにホロコーストされた被害者だが、百済系朝鮮民族・藤原氏は大和民族(特に武士階級)を、戦争を利用して誤魔化しながらホロコーストした加害者だ。



 もちろん、藤原系といえども、何も知るよしもない、一般の日本土着化した藤原氏庶流の人達にはまったく何の問題もないし、何の関係もない。それらの人達も藤原氏にとっては、日本土着民も同じなので、百済国再建の邪魔であり、排除の対象だと思う。(なぜならば、私の父方の祖母は成瀬氏の庶流・伊藤氏、つまり、清和源氏満政流かつ藤原氏である。だが、祖母の兄は日露戦争で戦死している。つまり、藤原氏の流れの日本土着民をも、藤原氏は土着民だとみて、戦争を利用して殺す対象にしていると思う)。天皇制の支配者をやっている、藤原氏嫡流やその仲間達の中の、右傾化を推し進めている、邪悪な人間達だけが問題なのだ。たとえば、藤原すり替え王朝の天皇といえども、昭和天皇は日本土着民族との融合を考えており、藤原氏純血主義を嫌っていたようなので、全然、問題ない。とはいうものの、私は血筋のごまかし、嘘ごまかしは嫌いなので、(恐らく南朝の血筋なのに)北朝の血筋のふりをしていた昭和天皇も、いらないが。。。嘘のあるところに、邪悪ははびこりやすいから。。。血筋のごまかしなどという嘘は、百害あって一利なしだ。全く必要ない。血筋のごまかしのある天皇など、一切、いらない。







■昔からよく聞く「百済人は日本人だ」「日本は百済だ」「百済人は血筋が尊い、新羅人は血筋が卑しい」という主張は、藤原系の人間が言っているのだろう



 昔からよく聞く「百済人は日本人だ」「日本は百済だ」「百済人は血筋が尊い、新羅人は血筋が卑しい」という主張は、藤原系の人間が言っているのだろう。







■朝鮮王朝を礼賛するテレビ番組、本



 テレビ愛知では、2012年3月9日(金)~4月24日(火)に、「善徳女王」という朝鮮王朝のドラマを韓ドラW(あさ8:05~)で各日2話ずつ放送したようだ。朝鮮半島初の女帝となった、新羅第27代の王・善徳女王が歩む波乱万丈の生涯を描くサクセスストーリー、とのことだ。

 また、「朝鮮王朝を礼賛する本を最近、本屋でよく目にする」と私の家族が言っていた。

 これらの朝鮮王朝礼賛は、藤原氏と天皇家の百済王族意識が強いせいではないだろうか? 新羅は百済の仇であるが、同じ朝鮮王族として礼賛しておこうということではないのか? 「韓流ブームの仕掛け人は電通」という説を昔からよく耳にするが、その韓流ブームとは、朝鮮王族意識の塊である藤原氏と天皇家が深く関与しているのではないだろうか?

 次の3つのことから、私はそのように考えるのである。

①天皇制の黒幕・藤原氏は、マスコミをかなりの部分、言論弾圧し、支配している。

②マスコミが韓流ブームを必死になって作り出した。

③「マスコミは朝鮮人に支配されている」という説をよく耳にする。

 これは私の考え過ぎだろうか?







■カルト宗教の教祖は、しばしば陰で一夫多妻制をやっている。藤原ペテン天皇制はオウム真理教と同じく、陰で一夫多妻制をやっているだろう



 秋篠宮は明仁氏の愛人であった加茂さくらの子と言われているし、紀宮は女官の子という噂がある。また、秋篠宮はタイなどに複数の愛人及び複数の隠し子がいるという噂を聞いたことがある。また、宮内庁の仕事は、皇族男性に愛人を斡旋したり、女性をあてがったりすることだという、気持ちの悪い噂を聞いたことがある。

 それらのことは、「昔はやっていたが、今はやっていない」と言われているが、実際には今もやっている、という噂である。

 心ある天皇がほんの一瞬廃止しても、他の皇族や次代の天皇や宮内庁が「長年やっていたから、またやってもいいのではないか?」と言って、復活させてしまうのか? 藤原一族は、日本一身持ちの悪いという噂のある一族だが、こんな藤原一族はいらないと思う。

 将来、天皇制が廃止になって、今、陰でやっているという噂のある、これらの一夫多妻制のことも含めて、全てが明らかになるといいと思う。麻原彰晃の一夫多妻制の話は、噂さえも全く流れていなかった初耳の話だったが、天皇制が陰でやっているという一夫多妻制の噂は、かなり昔から既に充分知れ渡っている、有名な話だ。







■天皇になりたがりの一族・藤原氏。藤原氏の特徴を最もよく表す、あまりにも異常過ぎる「五摂家・五天皇家」



 いまの天皇家が約900年前から藤原氏の血筋だということが分かり、色々なことが見えてきた。藤原氏ほど、天皇になりたがる一族はないのではないだろうか。

 もし今の天皇家の男系の血筋が絶えたらどうするかを戦後話し合っていた時に、藤原氏が「藤原氏自身が天皇家になってあげましょうか」と提案したそうだ。藤原五摂家のうちの近衛家と一条家の男系の血筋が、天皇の子を養子にしたことにより、天皇家の男系の血になっていることを理由にしてである(しかし、天皇家の血は鳥羽天皇(1103年生まれ)の代から藤原の血なので、本当は藤原の男系の血である)。すぐに却下されたそうだが。

 それほど天皇家になりたいのか、藤原氏は。ちなみに西園寺公望の男系の血も天皇家である。西園寺公望は東山天皇(1675年生まれ)の男系子孫。近衛文麿と現在の一条家は後陽成天皇(1571年生まれ)の男系子孫。



 また、南北朝時代(1336-1392年)も、天皇家が藤原の血筋になってからの話である。天皇になりたい家が北朝と南朝の二つもあったということだ。そして、南朝は地に下って四つの家に分かれ、南朝は四つの家がそれぞれ代々、勝手に天皇を名乗っていたそうだ(鹿島曻著『増補版・裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』かどっかに書いてあった。ソースは曖昧)。北朝一家、南朝四家。日本には、合計五家も天皇家が同時に存在した時代(明治維新まで、四百年以上続いた)があったということになる。いずれも藤原氏の血筋である。藤原氏はどうしても天皇になりたい、という気持ちが強い血筋ではないのか。

 もし継体王朝や桓武王朝ならば、天皇が同時に何人も立つ状態が四百年以上も続くような、そんな酷いことにはならなかったのではないだろうか。つまり、継体王朝や桓武王朝は普通の王家程度であり、藤原氏だけが天皇家になりたい気持ちが異常に強い血筋なのだろう。戦後、熊沢天皇をはじめとする南朝の末裔だという自称天皇が何人か出てきて皇位を要求したというが、「どうしても天皇になりたい」という藤原氏の血筋特有の欲求のなせるわざだと思う(cf. 熊沢寛道 http://megalodon.jp/2013-0801-1738-06/wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%A4%A9%E7%9A%87)。



 平成以降、藤原氏は天皇制支持率を隠蔽して天皇制を続けている。それに同調して今の皇族がまるで支持率が高いかの如くの顔をして皇族を続けているのは、藤原氏が怖いせいだとばかり思っていた。しかし、今の皇族の血筋が百済王氏の血筋ではなく、単なる藤原氏の血筋だと知った今となっては、その考えは変わった。今の皇族自身が「天皇家でい続けたい」という藤原氏の血筋特有の欲求のために、藤原氏こと宮内庁の支持率隠蔽に同調して、好んで皇族を続けているという面もあるのではないだろうか、と思えてきた。

 支持率隠蔽されたまま皇族の地位にい続けることに対しては、藤原氏が怖くて「支持率を隠蔽していることは間違っている。支持率が50%を切ったら天皇制を廃止にすべき」と言い出せないだけかと思っていた。しかし、藤原氏の血筋なので「どうしても皇族でおりたい」という欲求が強いせいもあると考えると、今の皇族に対して呆れた気持ちがわいてくる。「やっぱり桓武王朝の血筋ではなく、藤原氏の血筋だから、そんなに天皇家の地位に執着するのだな、藤原氏の血筋は争えないな、どこまでいっても、藤原氏の血筋はしょせん藤原氏の血筋だな」と思う。

 藤原摂関家は五摂家に分裂して、それぞれが摂関家を名乗った。「五摂家」体制が確立されたのが1273年。以来、七百年以上、五摂家状態は続いている。

 藤原氏の血筋の天皇家も、北朝一家、南朝四家の五天皇家に分裂して、それぞれが天皇家を勝手に名乗った。この同時五天皇時代も、明治維新で終止符を打つまで、四百年以上続いた。明治維新で、南朝四家のうちの一つ・大室家が新・天皇家になった。

 「天皇家になりたい」「摂関家になりたい」という気持ちが異常に強い血筋。しかもずっとそれに粘着してそれを無理やり続ける血筋。それが藤原氏の血筋の特徴なのではないだろうか。継体王朝や桓武王朝の性質とは、明らかに異なる性質の血筋である。







■ヤドカリ一族・藤原氏。カッコウ一族・藤原氏。他者になりすまし、パクるのは藤原氏の十八番。パクったのは継体王朝の「天皇家」の名前だけではなかった! 清和源氏までパクるとは! 藤原系政治家の会である自民党の「清和会」という名前!



 自民党の「清和会」(森喜朗―小泉純一郎―安倍晋三を含む)は、清和源氏とは無関係なのに、

★清和源氏から「清和」の名前をパクった

のではないのか? 鳥羽天皇以降の藤原氏の血筋の天皇家が、継体王朝とも桓武王朝とも関係ないのに、「継体王朝=桓武王朝=藤原の血筋の天皇家」ということにして、

ありもしない「万世一系の天皇家」を騙(かた)っているのと同じだと思う。




■天皇を殺し、

天皇をすり替える人間(藤原氏)が、天皇制の黒幕として日本国民を騙して支配するためにやっているのが天皇制。
http://seiwagenjisinjitury3.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ded1.html

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 11:51:40

李氏唐王朝のこの列島に対する認識は、梁書や北史・南史に描かれていました。それは、唐王朝によって征服され、その後も支配されている今のわが国の歴史認識でもあります。
 その北史・南史は、李延壽によって記されていますが、この列島に関する記述は、北史では隋書を、南史では宋書が使われていました。それも、参考にしているといった程度ではなく、まったくそのままの文章を部分的にパクリのごとく使っています。そして、自らの思惑に沿って、都合よく付け加え、あるいはカットし、さらに書き換えるといった改竄を行っていました。
 この改竄の証拠こそが、わが国の矛盾だらけの『歴史認識』を解明するカギとなりました。
 わが国の成り立ちを記したとされる古事記・日本書紀の原本は今に残されていません。おそらく、当初は、時代背景とその内容から考えますと、663年に出雲王朝が滅ぼされ、その出雲王朝に伝わる歴史がそれらに残されていたのでしょう。それを、唐王朝・藤原氏は、自らの支配に都合よく改竄し、それが今に残されているという経緯が見えてきました。
 日本書紀には、本来、系図もあったようですが、それは写本すら残されていません。
 唐王朝が崩壊し、この列島にその王朝貴族が流れ着いて、改竄の手法を受け継ぐ人たちによって、この列島の歴史も北史・南史のように、彼らにとって都合よく作り変えられたということがうかがえます。
 そこで作り上げられた『新しい歴史』が、『新唐書』に反映しているとみられます。 
 その改竄された『新しい歴史』の中心を為す古事記の中で、最強の神は『天照』です。そして、『天照』の弟は『スサノオ尊』となっています。
 中国の史書『魏書』には、女王『卑彌呼』を共立し、『有男弟佐治國』と、弟が補佐して国を治めているとありました。隋書にも使者の言葉として『天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』とありました。それは、どちらも国家的象徴と実質的支配者という関係をそこで述べていました。つまり、肉親的な意味ではなく、国家の統治機構における力関係を意味するものでした。言ってみれば『兄貴分・弟分』といったことでしょうか。
 これらのことは、出雲王朝の成り立ちを伝えるものでした。
 新興勢力の出雲は、この列島の先住民族の象徴である『卑弥呼』を国家的象徴として奉り、征服者であるにもかかわらず、自らをその国家的象徴の下で実質的支配者としてこの列島を統治したということを言い伝えているのでしょう。
 これらのことが、中国の史書や古事記・日本書紀の原本には残されていたと考えられます。万葉集には、『日皇子(ひのみこ)』といった表現が出てきますが、それが史書では、卑下されて『卑弥呼』と記されたとみられます。
 そして、その唐王朝の勢力によって、この列島の成り立ちの歴史も、彼らの思惑に沿って改竄されたのでしょう。
 国家的象徴としての『天』と実質的支配者『日』という関係が、古事記では、『天照』と『スサノオ尊』にあたるのですが、本来最強の神であるはずの『スサノオ尊』は、まるで妖怪のごとく忌まわしい姿に描かれていて、その上『高天原』で大暴れします。
 つまり、征服された民族の象徴は、征服した民族によって貶められるということです。
 こうして、出雲王朝の最強の神は、唐王朝・藤原氏の神を意味する『天照』の下に置かれてしまいました。
 その『天照』は、古事記の中では、勇猛な姿に描かれています。スサノオ尊が天照のいる高天原へ近づくと、天照はスサノオ尊が国を奪いに来たと思い、武装して『何ゆえに来たる』と言ってスサノオ尊を迎え撃とうとします。ここでは、出雲の勢力には決して油断することなく万全の構えをせよということが述べられているとも言えます。
 そして、その天照は、自分の子どもにスサノオ尊の世界を支配させたいという意思を表明します。その時期は、スサノオ尊からすでに大国主命に国の統治が移っていました。これは、まさしく663年、武則天の命により、この列島の出雲王朝『大国』が征服されたことを伝えているようです。
 天照は、まず一人二人と出雲の平定に向かわせるのですが、大国主命に取り込まれてうまくいきません。そこで、武甕槌神(たけみかづちのかみ)にお供を付けて中つ国、出雲国の平定に向かわせます。その武甕槌神が降ったのが出雲国伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜です。武甕槌神は、浜に剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫ります。大国主命は、二人の子どもの神に相談するのですが、つまり家臣でしょうか、その二人とも武甕槌神に太刀打ちできず、結局、大国主命は国を『献上』すると言ったとされています。
 まずは、交渉をするのですが、所詮は侵略行為ですから『平和的』にそんなことができるはずもありません。結局、武甕槌神による実力行使で出雲が平定されたと描かれています。
 ここでは、李淵によって唐が建国された時と同様の手法で、この列島が征服されたことを描いています。まずは、武力で以って制圧し、その後に『禅譲』という形式でその侵略行為を正当化するというものです。ここでは、さらに『献上』されたとまで美化しています。
 『唐王朝による列島征服の軌跡』でも検証しましたが、武則天の忠実な家臣であった劉仁軌によってこの列島が征服されていたことが、古事記では『天照大神』の指示で武甕槌神により出雲が征服されたとあり、まさにその史実に相当しています。
 また、同時に、武甕槌神の働きがなければ、その後に続く神武天皇以下の天皇も成り立たないということにもなります。その武甕槌神を、藤原氏は、奈良春日大社の第一殿で奉っています。
 これらのことからも、『天照』は、武照、つまり武則天を意味し、その武則天の命によりこの列島が征服され、今にも続く天皇のルーツは武則天にあるということをも意味しているようです。
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/koj-2.html

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 11:54:54




カフェで天照と天武と武則天異説(@ ̄  ̄@;)ホントケー ...ameblo.jp › starless43 › entry-12432072667
2019/01/10 - 東族の一族である鮮卑(朝鮮は鮮卑の美称ともされる)が唐を建国し、二代皇帝太宗(天可汗、文武皇帝)の妃となった武照(武則天)には、藤原鎌足の娘説(能『海人』)があり、中国には、太宗崩御後に一時出家した武照が瀛州(日本)で子供を産んだ ...

武則天による征服www7.torichu.ne.jp › ~landp21
その当時、唐王朝第3代皇帝李治は病弱で、その皇后「武則天」が実質的支配者として君臨していました。西暦660年、新羅の支援要請を ... つまり、古事記において出雲の征服を指令している「天照」とは、武則天を意味しています。武則「天」の幼名・本名は、武「 ...


最大の問題は、どうして、こういった有り得もしない「神話」なるものが創作されたのかというところにあります。そして、それは、天皇のルーツについて事実をそのまま残せなかったということでもあります。その架空の話のようにしか見えない『天照大神』と『神武天皇』ですが、実は、そこには真実を解き明かす手掛かりが残されていました。
 それらを検証し、突き詰めていきますと、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって、この列島の都があった「出雲(当時はやまとと呼ばれていました)」の地が、占領・征服されていたところに行き着きます。もちろん、この列島全域もその支配下に置かれました。その詳細は、資治通鑑に残されています。
 唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時にこの列島が征服されているので、今もこの列島には武則天の影響が色濃く残されています。天皇もそのひとつです。武則天は、道教の理念から皇帝を天皇という呼称に変えました。しかし、武則天の失脚後はふたたび皇帝に戻されています。ですから、中国皇帝制度の中で、天皇を名乗ったのは、武則天の夫李治のみです。つまり、この列島に天皇制が誕生したのは、唐王朝の支配がこの列島で確立した大宝律令以後です。
 その唐王朝の勢力は、この列島を支配下にするだけでなく、歴史をも自らに都合良く改ざんしてしまいました。それまで出雲王朝が存在していたことも、この列島を自らが侵略・征服したことも消し去り、さも紀元前の太古の時代から支配していたかのように創作したのです。
 我が国に天皇制をもたらしたその原点・ルーツは、武則天にあります。そして、武則「天」の幼名・本名は、武「照」と言います。まさしく「天照」です。ですから、古事記では、天皇は天照の子孫だと描かれています。
 天照の正体とは、武則天でした。ですから、天照は、我が国の最強の神として、伊勢神宮に祀られたのです。それを象徴するように、伊勢神宮の神紋は、花菱、別名『唐花』とも呼ばれています。
 さらに、武則天は、自らが即位すると「聖神皇帝」と名乗りました。聖「神」皇帝たる「武」則天ということで、「神武」なのです。つまり、天皇の祖先が天照だとか、初代天皇が神武天皇だというのは、我が国の支配勢力のルーツは、武則天にあるということを伝えていたのです。
http://kodai21-s.sakura.ne.jp/gimon-am-1.html

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 12:10:17





これらの「隠す(ステルス)」戦略はロスチャイルド財閥やロックフェラー財閥やイルミナティとも共通しているのです。
一般的には、「隠さなければならない」事は、たいてい「悪い事」なのですが、カバラの場合には「隠す為」にわざと堂々と「見せて」隠す「灯台下暗し」の方法を使うのです。


徐福「出雲族」(スサノオ)の歴史を神話にして抹殺したと考えれば、辻褄が合うというのが、私の考え方になるからなのです。
この時代には、隋、唐、百済は任那も新羅も含めて、同族の扶余系が統治しなければ、正式な国王として認めなかった時代でもあったからなのです。
7)天武天皇が関係の深い唐の則天武后と婚姻し密約を交わしたのではないでしょうか。
新羅と協力して物部氏、蘇我氏、大伴皇子を潰し、仏教を使って日本を征服したと考えると、なるほど辻褄が合う点が多いのです。
8)藤原氏一族は遣唐使や歴史編纂の責任一族であり、唐との繋がりがとても強かったのです。
また藤原不比等の妹が唐の高宗に嫁いだ事が能の「海人」では密かに伝承されているのですが、妹では無く母が嫁いでいた事を知らせる為のカバラだったのかもしれません。
9)藤原不比等の全盛期である聖武天皇の時代以来、唐や仏教の影響が著しく強くなるのです。
遣唐使で藤原家が頻繁に行き来しています。
藤原鎌足は長男の定恵を唐に派遣し仏門に入れるほど熱心に唐の繋がりと、文化の導入を試みました。
10)藤原一族は明治以降には、伊勢神宮の天照大神を最高神とし、「国家神道」を操りました。そして最後の藤原氏が近衛文麿元首相であったのです。
共産主義に洗脳されて、日米対戦を決定的にした張本人なのです。日本を共産主義化しようとし、「日米対決を決定的にして内閣を去った」。日本を破滅の直前まで引っ張ってしまった男だったのです。
そしてゾルゲ事件やヴェノナ文書で、その事実が明らかにされてしまったのです。
日本人はそれらの教訓に学び、コミンテルンと「共産主義」とスパイが諸悪の根源であった事を忘れないで欲しいのです。
また、歴史的に藤原氏が日本の歴史を大きく揺り動かしてきた「くせ者」である事も忘れないで欲しいのです。
最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、
新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれたらしいのです。
 藤原氏は女系氏族のようなのです。「万世一系」と男系を主流とする一方で、女系で天下を収めたのです。女系と言うのは、もともと騎馬民族の風習なのです。
商人がのれんを引き継ぐのに「婿入り養子」を取るのも、騎馬民族の名残という事が出来るのかもしれません。藤原氏は女系で南朝百済系の皇室と北朝新羅系の皇室両方に関わって来た経緯から、南朝の藤原式家、北朝の藤原五摂家に分けられます。
 女系から見ると同族となりますが、男系から見ると敵対氏族となってしまう悩ましい状況なのです。
もともと、百済、藤原、新羅系同士が混血を重ねて来たような経緯があるのです。
 ところで藤原氏が政敵を倒して来た手口が実に汚いのです。それは蘇我倉山田石川麻呂との関係でも、明らかなのです。すなわち、
①陥れたい勢力の最重要人物をターゲットとする。
②陥れたい勢力の同じ仲間の中から反逆分子をスパイにして裏取引する。
③★重要人物を毒殺した後に、

★★スパイに約束通りの★★恩賞を与え重要なポストを与える。
④ある程度時間が経ったら、そのスパイを処分し一族を全滅させる。
⑤これらを次々に繰り返して、手を汚さずに自分の思い通りにhttps://note.com/dadamail/n/nd3a7087ff783してしまったからなのです



勲章制度の歴史ー
贈られていたikeya-arts.com › column › 勲章制度の歴史ー日本最古...

2020/02/21 - 昔は勲章ではなく「田」が贈られていた.

★勲章の起源は、文武天皇が701年に制定した大宝律令による、恩賞階級のひとつでした。

★恩賞とは、★手柄を立てた家臣に対し、主君が与える褒美のこと。 当時は、褒美といっても勲章ではなく「田」で、




③★重要人物を毒殺した後に、

★★スパイに約束通りの★★恩賞を与え重要なポストを与える。
④ある程度時間が経ったら、そのスパイを処分し一族を全滅させる。
⑤これらを次々に繰り返して、手を汚さずに自分の思い通りにhttps://note.com/dadamail/n/nd3a7087ff783してしまったからなのです

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 12:13:17

神々の最高位には、国津神には遠慮して貰い、渡来氏族の天津神にも矢張り遠慮して貰い、天照大神(あまてらすおおみかみ)を置いたのである。”

“天照大神とは唐の偉大な女帝であった武則天(ぶそくてん)の名、武照(624~705)の照であり、天皇とは彼女・武照(ぶしょう)の発案であったのじゃ。壬申の乱(672)を制した天武天皇は唐に友好的な勢力が支持した天皇であったから、唐の介入を受け入れて、その証として唐では禁字となっていた照を天照(あまてらす)と云う神名として用いて、武則天を神と崇(あが)めることにしたのじゃろう。日本にとっては古来、中華(中原ちゅうげん)が海の向こうにある天の原であり、高い文化を携(たずさ)えて海原を越えて渡来してきた民は神にも等しい存在であったに違いなかろう。”

“そちはわしのことを調べようと、わしの遺(のこ)した足跡を嗅(か)ぎ回っているようじゃが、何も分かるまい。わしは日本国の建国の精神を完璧(かんぺき)に仕上げた積(つも)りじゃから、その綻(ほころ)びを探そうとしても証拠は見付かるまい。唯(ただ)遠い将来において1000年先か2000年先か知らぬが日本国が唐天竺と同質になる程に成長した暁(あかつき)には、わしが施した大和魂の調合の手の内を知らしめても良かろうと考えた。じゃによってわしが集めて記紀編纂の資料とした旧辞・帝紀や諸豪族の家伝の類を燃やし尽くしたことに表向きはしているが、一部残しておく措置も取ってあるのじゃ。”

“これを暴(あば)いてしまうのは危険が伴うでな、営々と築き上げた蓬莱の日本国が国家転覆の瀬戸際とならないとも限らないのじゃ。百済(くだら)のようにじゃ、あれ程に立派な国であり、倭国などのお手本であったのに、新羅のような国に破れてしまった。民たちは自身の出自を知って仕舞うと、その古い方の共同体幻想に取り付かれてしまうでな。丁度子供が育ての親よりも生みの親に情を通ずるのに似通っている。国も同じような論理で集合離散を繰り返して来ておる。歴史はそれを雄弁に物語っている。”

“わしは倭国が任那を失って海東だけの版図の国となり今また百済の多くの遺民を受け入れて、大唐の支配下に入り、日本国と名乗るのであれば、自らの遠い昔の先祖の地の事は忘れてこの国に今や完全に根付いたことを語る物語を作ろうと考えた。古事記はその物語じゃから唐天竺の伝説や百済の神話などあるものは全部参考にして日本国の国の誕生物語に仕立てたのじゃ。殷の末裔も秦の末裔も漢の末裔も日本には嘗て大昔の事じゃが渡海して渡来し住み着いて今に至る。既に新天地のこの東海の島に立派に住み着いておるのじゃが、未だに先祖が殷だとか秦だとか漢だと言い張っていた。もうここらあたりで幾世(いくよ)も前のことは忘れて、この地が我が大地と思い定めて五族宥和(ゆうわ)して暮らす国となるべき時期が来たのじゃから。そのための共同体としての想い・幻想としてでも、国家幻想と云うのか、わしは大和魂として建国の勇者も物語には登場させたのじゃ。ヤマトタケル(日本武尊・倭建命)のことじゃよ”

“如何かな、わしに何か尋ねたいと申していたのではないのかな。”

京介と史美に似た女官は不比等公の話しを何時までも聞いていたが、言葉を差し挟む隙(すき)もなく、驚くばかりの内容であった。

“わしは父の鎌足公の好きであった六韜(りくとう)を同じく座右(ざゆう)の書としており、権謀術数には長(た)けておったようじゃ。どうしても政権争いの鍔迫(つばぜ)り合いとなると、先んじなければ遣られるでの。それでもなるべくなら血族同士で相争うことはないようにしたいのが人情じゃから。わしは四人の息子には仲良くすることはないが、いがみ合わずに自ら切磋琢磨して世に出よと申してあるのじゃ。”

“そうじゃ、肝心のそちらの質問のことじゃが、大方予想すればわしの後任となると云う長屋王については、やがてはわしの四人の息子共と政権争いになるやも知れんとわしは思うが、これとて唐の律令と云うものを日本にも制定した上は国の箍(たが)が固まっているので、国の中央の都辺りで少しばかり政権に乱れがあろうとも、日本の国体に傷が付くことは少しも無かろうと思う。大唐の威勢が此処日本にまで及んでいる今日であれば、外の国も日本国の反対勢力に加担することもないじゃろうから日本国が分裂する危険は有り得ないことになる。そのような時にも日本神話が何代かを経て定着すれば、嘗ての時代の百済を先祖とする氏族も新羅を先祖とする氏族もあるいはまた高句麗を先祖とする氏族も、一つの同じ日本神話の中で同体となり同一の夢を見ることが出来る筈じゃ。もう、東海の更に東や南へは陸地もなくこのオノコロ島で我等も我等の子孫も日本人として生きて行くのじゃと。和の精神は日本建国の精神であり、神話で繋ぎ合せた天照大神から繋がる天皇の系譜は皆の先祖の象徴としてこれからも日本の天(あめ)の下(した)を知(し)ろしめすのじゃ。分かるかな。”

“政権を争って人臣位を極めた者は、娘を天皇家に入内させて血脈を重ねることも出来ようぞ、そうではないか。”

“これまでわしが調べた史書に書かれている事は、そのようなものが多い。略(ほぼ)全てと云ってもいいくらいじゃ。権力を握っても、民はその権力を誰が認めるのかと見守りおるのじゃから。先の帝の血脈が常に流れておると云うのは分かり易い権威の与え方と云うことになるのじゃ。もっと簡単に云うと、大唐では皇帝が地上におり、天帝は天上にいるのじゃが、日本では天帝が天皇として地上に居る形を取っておるわけじゃ。”http://nara-fuhito.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/16-dc6b.html

Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 12:19:33

日本に渡ってきた藤原氏と武一族は、武則天の死→唐の滅亡で帰れなくなっちゃた。そこで神話を捏造、自分たちを神格化したアマテラス「照」の子孫だと言い出す。「天皇」という称号を使ったのは武則天だけ RT @honest_kuroki  そうそう

藤原京→平城京→平安京…すべて長安のコピーなのに、支配層の出自に関して歴史学者は沈黙。三井住友グループの圧力でしょうねー


①尊王とは、江戸時代において300年間も途絶えていた唐朝皇室の伝統を朝廷に復活させ、満州族清朝に弾圧された各地の漢民族と同盟して、欧米に侵された清朝と欧米を倒すための標語だった。

@honest_kuroki ⑦しかし徳川幕府の尊王運動は、睦仁親王(明治天皇)が

蘭学者の子でケンブリッジ大留学生の箕作奎吾に摩り替えられ、唐朝継承の故実を絶たれて、英国に利用されることになった 。

今も蘭方医の十八番の人体実験が続く

>藤原鎌足の娘(不比等の妹)が唐の第三代皇帝の后、則天武后

これで考えるなら、天皇家=藤原家?
それが明治で変わったの?

追記
『武則天は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照。日本では則天武后と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。 』(ウィキペディアより)

「照」とありますね。

最近この「則天武后」の映画をやっていた

http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-14902.html

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 12:22:51

勲章には、旭日章、宝冠章、瑞宝章の3種類があり、それぞれ勲一等から勲八等までの8段階に分かれている。さらに、これらの上位に位置する勲章として、大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章、勲一等旭日桐花大綬章がある。

 春秋叙勲ではそれぞれ約4500人、年間約9000人が受章する。叙勲の受賞年齢は原則として70歳以上となっている。ちなみに、ヨーロッパでは年間にイギリスが約1万2000人、フランスが1万1000人、ドイツが約7000人、イタリアが約1万4000人、ベルギーが約1万5000人の受章者となっている。

 一方、褒章には黄綬、紫綬、藍綬、紅綬、緑綬、紺綬の6種類があり、それぞれに対象となる分野が以下のように決められている。

・黄綬褒章―業務に精励して衆民の模範である者
・紫綬褒章―学術芸術上の発明改良創作に関して事績の著しい者
・藍綬褒章―公衆の利益を興した者または公同の事務に尽力した者
・紅綬褒章―自己の危難を顧みず人命を救助した者
・緑綬褒章―奉仕など徳行卓絶な者
・紺綬褒章―公益のため私財(500万円以上)を寄付した者

 このうち、黄綬、紫綬、藍綬の褒章は春秋の褒章として毎年2回授章が行われているが、紅綬、緑綬については事績の生じた都度に授章が行われていることになっており、実際にはほとんど授章は行われていない。褒章の受賞年齢は原則として55歳以上となっている。

政治や役人の世界で推薦ルートが確立

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2016/03/post_14130.html
Copyright © Business Journal All Rights Reserved.

鷲尾香一「“鷲”の目で斬る」
ナンセンスすぎる春秋の叙勲・勲章、呆れた内幕…受賞者の7割は公務員、功績無関係


ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2016/03/post_14130.html
Copyright © Business Journal All Rights Reserved.



あ、
褒章って厳密には勲章とちがうんだね。



あーよかった

川上弘美や林真理子みたいな
部落は勲章もらえないんだ。

俺の親戚に勲章もらってる科学系の人いるから
ま背のり民族がコネでがんばっても
実力がないもんね。
オナニー小説だろ弘美の日経のとか。
幼児誘拐の朝日童話とか

ⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 12:28:30

文部科学省関係の勲章伝達式が行われたのは5月11日。芸術や科学技術の分野などに貢献した人物に旭日章や瑞宝章が授与されるのだが、この時、旭日小綬章の受章者を代表して、勲章と勲記を林芳正文科相から受け取ったのが、たけしだった。

 会場の国立劇場大劇場に北野のイニシャル「K」を入れた羽織袴姿で登場した彼は、やや緊張した面持ち。ところが、式典後に行われた囲み取材では、

「あんまり日本はくれないなと思っていたんだけどね。外国はよくくれるんだけど、日本で活動しているわけだから、日本である程度の評価を頂けるのは、うれしい」

 と受章の感想を述べたうえ、たけし節も飛び出した。

「出ていってコケようかと思ったんだけど、会場見たらジジイとババアばっかりなんで、これはダメだなと思って。天皇陛下がくれたものだから、バカなことしちゃいけないと思って自粛しましたよ」

 ほんの2カ月前、長年所属したオフィス北野を飛び出し、愛人とされる女性が代表取締役を務める事務所「T.Nゴン」に移籍。たけし軍団も巻き込んだ泥沼の内紛劇を起こしたばかりとあって、今回の受章は、彼にとって久しぶりに明るいニュースである。が、実は、今回の叙勲に至るまでには、紆余曲折があったというのだ。

 文科省関係者が言う。

「以前にも、たけしには受章の話が2度ありました。と言っても、勲章は70歳を過ぎないともらえないので、これまでは紫綬褒章の話ですが……」

 フランスから芸術文化勲章のシュバリエ章やコマンドール章などを授与されているが、確かに日本国内での受章は今回が初めて。「世界のキタノ」と称される映画監督やタレントとしての実績を鑑みれば、すでに受章していても不思議ではない。ところが、だ。

「たけしは、常々、“文化勲章を貰って、立小便で捕まりたい”などと口にしてきましたが、それは彼流の冗談。本当は、過去にフライデー襲撃事件を起こしているので“前科者だから貰うわけにはいかない”“芸人がそんなの貰ったらシャレにならない”と言って断っていたんです」(テレビ関係者)

 それが、なぜ、勲章を貰う気になったというのか。年を取ると名誉欲が出ると言われ、たけしも人並みに年齢を重ねた結果ということになる。が、

「愛人とされる女性の影響ですよ」

 とは、たけしと交流がある人物。

「2015年にフランスの騎士団からも称号を叙任されています。シャンパンメーカーが騎士団に推薦したのですが、メーカーにたけしのことを推したのが彼女。元々、銀座のホステスだったが、その後、パーティー・コーディネーターとして、シャンパンやワイン関係の仕事をしていたから押し込んだ。たけしは彼女に言われるがままですよ」

 もはや“洗脳”状態にあるとされ、独立騒動の背景にも彼女の存在があったのは間違いない。つまり、叙勲についても彼女の助言によって、これまでの考えを百八十度転換させてしまったと見られるわけだ。

「今年の始めでした。本人が、“勲章が欲しい”と言いだしたのです。それも、女優の“森光子と同じものがいい”と周囲に話していました」(同)

 生前の森は1984年の紫綬褒章に始まり、92年に勲三等瑞宝章、2005年には文化勲章を受章。さらに勲章ではないが、09年には国民栄誉賞も授与されている。今回、たけしが貰った小綬章は、制度が変わる以前の勲四等に該当。森の一つ格下になるから、願いは叶わなかったことになる。ともあれ、これまで辞退していたたけしが今回、勲章を手に入れる裏では、ある永田町の大物が動いていたという。その人物とは……。

次ページ:“電話をしただけ”
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/05250559/?all=1



まあ、なんか

「ものすごいトシヨリで、政府の犬(政府のスパイ、事件屋、ゴタ消し)で、
政府とのコネがあれば」
てことね。

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 00

2020/08/01 (Sat) 12:33:16

 つまり、この列島の藤原氏の勢力にしてみれば、天照大神、すなわち、武則天の意思は絶対だということを意味しているようです。そして、『本当に西方の国を求めようと思うならば、天神や地神などあらゆる神を奉り、様々の捧げ物を大海に散らし浮かべながら渡って行くが良い』と、天照大神の大号令が発せられます。それに従い、皇后が海を渡っていくと、船は波のまにまに進み、追い風も盛んに吹き、波に乗って船は一気に新羅国の半ばにまで達したとあります。
 このように、天照大神により大陸侵略への指令が出され、皇后はそれに従って侵略に向かっています。
 この神功皇后も、皇后武則天とだぶります。武則天自身、朝鮮半島を征服していますし、武則天が帝位に就いていた時、六九七年には『神功』という年号を付けています。
 また、ここでは、大陸侵略に消極的な天皇は消されるかもしれないという、藤原氏からの『脅し』とも言えるほどの強烈な大陸侵略へのメッセージが残されています。恐ろしい事に、現実の歴史上にあっても、秀吉の時代、あるいは明治以後第二次大戦中まで、実際に大陸を侵略しています。
 その背景に、この記紀で述べているようなことがあるとしたら、かなり危険なことです。というのは、天照大神の大陸を征服したいという意思、あるいは仲哀天皇や皇后に大陸を侵略せよと出した指令が、その後撤回されたような話は出てきません。
 その意思や指令が、藤原氏の大陸回帰への宿願を意味しているとしたら、大唐帝国再興という、彼等の大陸侵略への策動は、天皇制が続く限り途絶えることはないということにもなります。
 また、その『天照大神』は、全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮で奉られています。
 つまり、『天照大神』は、わが国の最強の神と位置づけられています。
 それは、同時に、『武則天』こそが、この列島の皇祖神だということをも意味しています。
 1960年代後半以降、現職総理大臣が毎年年始に参拝しています。
 庶民の『初詣』とは、訳が違います。政教分離を厳格に定める憲法と相容れないその行為が、はたして何を意味しているのでしょうか。
 そこにおいて、この国の最高権力者が、唐・藤原氏と大陸侵略への号令を発している天照大神、つまり『武則天』への忠誠を誓っているとしたら、この列島の将来にとって極めて危険な動きだと言わざるを得ません。 http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/koj-4.html

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 14:57:38



コングール山(コングールさん、Kongur Tagh または Kongur、ウイグル語: قوڭۇر تاغ; Коңур Тағ, モンゴル語: Хонгор Таг, 中国語: 公格尔山; 拼音: Gōnggé'ěr Shān)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)アクト県にある山で、標高は7,649m。崑崙山脈の最高峰である。

崑崙山脈の西端をなすコングール山脈と呼ばれる小山脈を形成している。ムスタグ・アタ山の北にあり、カラクリ湖とパミール高原に近い。他の山に隠れた山となっているため、1900年ころまでは外国人がよく知られていなかった。しかし、中国とパキスタンの間を結びタシュクルガンとカラクル湖の近傍を通るカラコルムハイウェイが建設され、現在では近づくことが容易になった。また、この山から840mほど離れたところにコングール・チュベ山(Kongur Tiube、中国語: 公格尔九別峰、土地の言葉で「白い帽子をかぶった山」の意味 [1] ) と呼ばれる標高7,530mのピークがある。

なお、コングール山の標高を7,719mとする説もある。

最初にコングール山の登頂が試みられたのは1956年であるが、登頂することはできなかった。初登頂は1981年にイギリス隊により成し遂げられた。この時、イギリスのボニントン隊は南面より、日本の京都カラコルムクラブ隊(総指揮小谷隆一、隊長高田直樹)は北面より頂上に迫った。日本隊は3名のアタック隊が帰還せず失敗に終わった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B1%B1


ここでいう「人類」は、今の人類 ...





笹目秀和 - オニペディア:出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典

onipedia.info › wiki › 笹目秀和

Translate this page
神仙(仙人)に会い、自分の使命を聞かされる。

また出口王仁三郎から
★大本の御神体を預かり★崑崙山に鎮めに行った。




あっこれか?


てことは

大本裏シンギョウの

伊勢とか北伊勢あたり
(水屋神社あたり)が

崑崙山とつながっちゃってるのはコレか



義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 15:08:11

崑崙山
出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典
『オニペディア(Onipedia)』
コンロン山は日本だと大台ケ原に相応する。[5]

崑崙山(こんろんざん)は、

現実の山としては、中国西部に崑崙山脈がある。最高峰はコングール山で標高7,719m。6千m以上の山が200以上連なる巨大な山脈。

崑崙とはもともと中国の伝説上の山である。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母(せいおうぼ)がいると言われる。


(1) 霊界物語に登場する山。
★国祖国治立命が太白星の十二個の玉を国魂として配置[1]した「十二の山」の一つ。「コンロン山」とも表記される。
(2) 霊界物語第3巻第7篇の篇題。
本項では(1)について解説する。
主なエピソード
第1巻第28章(崑崙山での戦い)


第1巻第28章(崑崙山での戦い)
魔軍との戦いで大八州彦命は少数の神軍とともに天山に降りたが、「崑崙山に移れ」という天上からの声で、崑崙山に移った。

険峻な山に似ず、山頂は平原が広く展開されており、色々な草花が爛漫と咲き乱れ、珍らしい果実が沢山に実っていた。

胸長彦の数百万の魔軍は崑崙山の山麓に蟻の這ひ出る隙もないまでにヒシヒシと取り巻いている。その軍勢は十二の山道を伝って十二方より、一度に攻め上って来た。

大八洲彦命の軍勢は、そこに実っている桃の実を取って打ちつけた。たちまち敵軍は雪崩の如くに山麓に落ち込んだ。

このとき中空から大自在天大国彦の魔軍が攻めてくる。大八洲彦命らは桃の枝を折りそれを左右に打ち振ると、魔軍の姿は消え失せた。〔第1巻第28章「崑崙山の戦闘」#〕

第3巻第23章(君は君、臣は臣)
崑崙山一帯の地方は太平無事に治まっていた。八王神の磐玉彦は、瑞祥の世には八王神の聖職は無用なので辞職して下野したい、と願う。

その件につき竜宮城で国直姫命が神勅を乞うと、君は君、臣は臣、わがまま言うな、神慮のままに生きろ、という厳命が降りた。

磐玉彦は前非を悔い、その後数百年間は泰平の世が続いた。〔第3巻第23章「鶴の一声」#〕


コンロン山は日本だと大台ケ原に相応する。[5]
https://onipedia.info/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99%E5%B1%B1


大台ヶ原山

大台ヶ原山(おおだいがはらやま)は奈良県と三重県の県境にある標高1695.1m[1]の山

最高点の一等三角点は基準点名が「大台ヶ原山」であるが、国土地理院による地図には日出ヶ岳(ひでがだけ)と表記され[1]、三重県の最高峰である。三津河落山(さんずこうちさん)や経ヶ峰(きょうがみね)など、標高1400mから1600mの複数の山[3]と、これらの山に囲まれた東西5 kmほどの台地状の地帯は大台ヶ原(おおだいがはら)と呼ばれ、奈良県吉野郡上北山村と同郡川上村および三重県多気郡大台町(旧宮川村)にまたがっている。大台ヶ原は吉野熊野国立公園の一部として指定され、特に景観を保護するため[4]に特別保護地区に指定されている[5]。

大台ヶ原は吉野熊野国立公園のひとつ
に指定されていて、中心付近の標高1,573.7m地点には大台ヶ原の自然や歴史を紹介する施設として「大台ヶ原ビジターセンター」が建てられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%B1%B1


水屋神社の
南西(熊野の神倉神社に近くなる方向)に
『大台ケ原山』がある

https://www.google.co.jp/maps/dir/%E6%B0%B4%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92515-1505+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E9%98%AA%E5%B8%82%E9%A3%AF%E9%AB%98%E7%94%BA%E8%B5%A4%E6%A1%B6%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%90%EF%BC%97/%E3%80%92519-2634+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%A4%9A%E6%B0%97%E9%83%A1%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E7%94%BA%E5%A4%A7%E6%9D%89+%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%B1%B1/%E7%A5%9E%E5%80%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92647-0044+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%B8%82%E7%A5%9E%E5%80%89%EF%BC%91%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%EF%BC%93%E2%88%92%EF%BC%98/@33.8174321,133.7359944,6.25z/data=!4m20!4m19!1m5!1m1!1s0x6004226e0da3737f:0xad67ac56035bc652!2m2!1d136.3158713!2d34.4348153!1m5!1m1!1s0x60068f307e4c4de7:0x76fa9fd9c7d822bc!2m2!1d136.1091955!2d34.1852589!1m5!1m1!1s0x60066cabae98e833:0xac29240976ec40d7!2m2!1d135.9827689!2d33.7221674!3e0

¥: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 15:13:39

前回、笹目秀和翁が出口王仁三郎翁のご依頼で大本教の御神体を崑崙山に鎭めに行かれた事を紹介しましたが、笹目翁はその際崑崙の神仙に伴われ天の鳥船・鶴仙に乗って山頂に向かわれたといいます。

その鶴は小型ヘリほどあったそうです。

この崑崙山ですが、平田篤胤先生も「天柱五嶽餘論」の中で



然るに此山神仙の幽境と定めし如くなれ、世間に現見する所は、右に云とは甚く異にして常の山に同じ。その神界は神仙に伴はれずは、到り得まじき處



崑崙ちふ山名は更なり。神佛界の處名をとりて、現界に擬し、弱水と云ふ川、積石と云ふ山をも此ぞ彼ぞと誣ひ定めて、地圖にも載せれど、其は悉後の擬名と知べし。



と書いておられるように、私が常々書いている太眞西王母の御本宮崑崙神界そのものと直接関係があるのかは分かりませんが、出口翁の御依頼で大本教の御神体を鎭められた山が崑崙山である事は神仙家として重要視せざるを得ません。

依って何回かに分けて崑崙山について紹介します。

太眞西王母の御本宮を崑崙神界といいますが、正式には五嶽の内西嶽の事を麗農山といい、中嶽の事を崑崙山といい、平田篤胤先生の「天柱五嶽餘論」にも



西嶽麗農山ハ西海中ニ在。白帝ノ都スル所。



中嶽崑崙山ハ九海中ニ在。天地ノ心爲リ。黄帝ノ都スル所。



とあります。

先程笹目翁が天の鳥船・鶴仙に乗って山頂に向かわれたと書きましたが、この鶴仙は天帝のつかわすところのものであるといいます。

私は、この一文が気になり今回崑崙山について書こうと思いました。老子中遊に、中嶽崑侖山は



天帝神王之下遊處也



とあり、平田先生は、



眞崑崙(中嶽崑崙山)は紫微宮直下



西嶽麗農山は



天帝の下都離宮



と書いておられます。

何故、大本教の御神体は崑崙山に鎮められたのか。

この崑崙山は、神僊界の中嶽、西嶽の何れかに関係があるのか。

次回は、何故西嶽の事も崑崙山というのかを紹介します。

天皇太帝、太眞西王母は私が最も尊崇する大神仙であり、私は五嶽眞形圖を祀り
https://ameblo.jp/konronsinkai/entry-12589097099.html





うーん

なんとなく関係がみえてきました。



まあ
オニザブロウと水屋神社は
直接関係ないと思うけど、

あのあたりが
崑崙山のあたりに見立てられてるのかも、、

水屋神社のそばの緑の川とか

日本とおもえないよね

桃源郷みたい。

ネットでしかみていませんが。


でもこれで
布置がみた
「崑崙山」
の霊夢がちょっとわかってきたような、


ようするに
オニザブロウの御神体が崑崙山にあるんだから
日月神示につながるんですね

Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 15:16:21

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:51:06



布置は

7月31日の朝に ちょっと霊的な夢で、

何かおおきな河?水辺?
のむこうの
すごい緑色の崑崙山の山の斜面

を見ました。そのあとは別の山の中の
どこか(ヒマラヤか何かの中?)

にある
建物(の中にいる自分とか)がみえました。

※そこに、亡くなった身内もいました。


で、

また崑崙山の緑の斜面が
見えた最初の場面にもどって、

またそのそばの山の中のどこかの
建物(公共の建物ぽい)
の中にいる、

ってかんじの夢だったのですが、



朝おきて考えてみたら、


寝る前に

何か龍の形ってどんなんだっけ、
て思って

とりあえず

ドラゴンボールって内容
ほとんどしらないんだけど
(ものすごくおおざっぱ
にはしっている)

その
キャラの

シェンロン(神龍)
というキャラの
絵をみてからねたんですね。


布置は地名とか詳しくないので

崑崙山とかよくしらないのに
夢にでてきた。

で、
しらべたら

崑崙山てのは
軟玉が取れる土地で、
仙人の住処だとか、

伝説のシャンバラは
その崑崙山の奥にある
(グルジェフ?)

とかいろいろあったようです。;

んで、


その夢の緑の斜面の崑崙山なんて
実際にあるのかしりませんが、


とにかく
シャンバラって
まあ弁慶(アストラル体)


「鞍馬寺のあれは
たしかに
伝説のシャンバラみたいなものだけど
シャンバラって名前ではないよ」

なんていってるんだけど、
崑崙山が霊的な夢?で見えたのだから、
なんか
そのあたりの龍脈も関係あるかもしれない。

で、
神龍のシェンロンとコンロンと
なんか似てるね発音も。

ロンて何だ?龍?だっけ?

ま、それは後でしらべるけど、、

それが気になってたら

水屋神社に、
義経が
みた瑞雲の八幡さんの
旗がらみの八幡の額があると
わかったのです。

まあ、

義経は
興福寺と関係あるのですが

水屋神社も
興福寺と関係あるそうで、
興福寺はまあ東大寺の
ライヴァルというか
なんか仲間なのか
ライヴァルなのか

しりませんが、


御水送り~オミズトリと青衣の女人(は義経だ!)
って前回は東大寺(毘盧遮那の遮那は
遮那王だからそれも義経と関係)の
話してたので、

そのオミズ送りって
水屋神社が春日大社(春日大社も義経と関係ふかいようだ。)
にたいして
おくるって事をやってたそうで。

しかも龍神信仰もあるそうだし

龍がナーガだから象なのか
ガネーシャのネタなんかも
水屋神社の記事にはあって

(聖天は直接関係あるのかないのか。
十一面で関係するのかな?)


まだ
だから何なのかよくわかんないけど、

とにかく

オミズ送りって
記事を全部まじめによんでたら

途中で、
義経が瑞雲の中に八幡旗をみてその
関係の八幡の額があるんですよ、

とか、、、そういう記事がでてきたんですね。
ついさっき。

これは

むー

八幡といえば

宇佐八幡で東大寺(オミズ取り)関係ですからねこれも。
若狭の御水送りは何なのかよくわかりませんが、

布置の以前の霊夢では
3・11って霊的にものすごく
オミズ取りに関係あるらしくて

てことは
今回でてきた
水屋神社の義経関係の資料も
なんか意味あるのかも、、

とおもいましたね。

で、
水屋神社の龍神ってのが
なんか

朝の霊夢ぽい夢でみた崑崙山のシャンバラー
ぽいネタ
あたりまでつながっちゃうのかもしれません。








義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:54:05



ただ、布置って

ほんと地名音痴なので

崑崙山なんて
きいたことはあるが
スっとでてこない地名なんですよ。


んで、

最近
ウイグル問題で俺、さわいでるんだけど


ウイグルのあたりも崑崙なんですね、、


で、シャンバラーとか

仙人の玉と関係あって

玉といえば龍だもんね。


なんかあるでしょうね。


で、

水屋神社の御水とりは
よくわかんないけど

春日大社って
藤原氏系だからなのか、
すごい義経モエで
義経関係のあやしいグッズいっぱい
もってるんだよね。
あそこ

関係ないけど
賢治も
フジってつく人だし
藤原氏系なのかも?しらんけど。
京都からながされて
東北で繁栄してる、
とか奥州藤原氏みたいなやつだね。


で、
藤原氏とかこういう
崑崙山なんか関係あるのかもルーツとして。
しらんけど
おもいつきでいってみました


義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:56:33


源氏の人って
いつも

雲が、、八条の、、これは吉兆じゃ、、

とかそういうの先祖代々だよね。

なんだろう

ヤマタノオロチみたいな。


で、辞世の句
ってのが
義経記だからアレだけど
本人のタマシイが
あれは
辞世の句とか
そのあたりはホント
ていうので

布置もそうなんだー
だからよく大事な場面で
ヘンな彩雲がでるんだねー

なんておもってるんだけど

紫雲ってのも
やっぱ雲だし、

なんか雲すきなのかね源氏は。




義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:03:11


ま、義経の辞世の句は
仏教くさいけど紫雲なわけよ。


で、
水屋神社が
合祀した
義経の八幡系の額の由来は

「義経が吉兆の雲をみたから。
そこに八条の旗がみえたから八幡をまつった」

とか

八幡は
東大寺のあれでしょ。
(手向け山八幡)

神輿にのって
宇佐からウサ八幡が
東大寺にきたぐらいでしょ。

んだから
なんかオミズ取りとかって
何なのかなーと思う。





> ★源義経が、
文治の頃、吉野の山を出て
★伊勢神宮へ参詣の途次、赤桶の相模峠にさしかかるやいなや突然黒雲が起こり、
★八幡の旗が雲の中より翻ったといいます。
義経はこの吉兆に喜び、
そこに
★八幡社(後の★相模神社)を建立したと伝わっています。
★明治時代の末期にこの神社は
赤桶の秋葉神社や作滝の滝野神社などと共に
★水屋神社に合祀されました。


あと話とぶけど

日月神示とかって
大本裏神業の
北伊勢ってのを重視してたよねそういや。


で、コモノって土地には

伊勢三郎の首塚があるとか、、


あと、


弁慶の熊野の別当家って

熊野では速玉なんかとも
関係あるんだろうけど、

伊勢の外宮と関係あるらしいよ

だからコンちゃんじゃん。

で弁慶の田辺と
空海のコンちゃんいや人間のジイさん
なんだろうけど、
田辺って伏見の稲荷の
ルーツっていうか稲荷信仰とたぶん関係あるでしょ


義経は
群馬の冠稲荷にも
伊勢野?
とかいう
ナゾのとちでひろった
お稲荷さんを
もっていって
洗ったり、
伏見稲荷の
分霊?みたいなものを
まつったりしている

んだけど
伊勢三郎も伊勢だからね、
で弁慶も
伊勢の外宮の筋で考えると伊勢も関係あるんだよね。






義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:21:15

水屋神社

正八幡宮額

 水屋神社の拝殿に「正八幡宮」の額が掲げられています。
「源義経が文治の頃吉野の山を出て伊勢の神宮へ参詣の途次、今のサガミ峠にさしかかるや突然黒雲が起こり、八幡の旗が雲の中よりひるがえった」(勢陽俚諺)といいます。義経はこの吉兆に慶び、ここに八幡社を建立したと伝えられています。明治四十年、水屋神社に合祀されました。

むささび
水屋神社
 境内には多くのむささびが棲息しています。人懐っこく、夕暮れ時に現れます。
http://www.mizuya.org/06_keidai/keidai.htm


Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:24:08

宮前からめづらし峠を通って赤桶への『旧道』は、赤桶地区の人にとって通学時の思い出がいっぱいある懐かしい道だと思います、その旧道に「道行谷」という案内板が設置されているそうです。

吉野を逃れた源義経と静御膳が通ったという伝承があると書かれているようですが、義経と静御膳は吉野で別れたことになっています。?・・。判官びいきの日本人ですので各地にこのような伝承があるのもまた義経にたいする想入れのあらわれだとおもいます。



 川俣谷にも、義経にまつわる伝承がいくつかあるそうです。 水屋神社に合祀されている八幡さんは、義経が吉野から伊勢神宮に参詣するため赤桶を通りかかったとき吉兆があり勧請したものということです。

 道行谷を静御膳と一緒だったということはないにしても義経、弁慶が吉野からの逃避経路として人目をのがれて高見峠を経て東のほうへと義経の頭に浮かんだ可能性もまったくなくもないというところでしょうか。


道行谷
http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/4fa9208c0fefcdfdc249c25d47b6cdb7


水屋神社の義経伝説
 http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/e3ef865469f5af7b77e87efffbbc7fd3


宮前からめづらし峠を経て赤桶までのバイクによる通り抜けの動画

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Ag6mos5pUXU



崑崙山
出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典
『オニペディア(Onipedia)』
コンロン山は日本だと大台ケ原に相応する。[5]

崑崙山(こんろんざん)は、

現実の山としては、中国西部に崑崙山脈がある。最高峰はコングール山で標高7,719m。6千m以上の山が200以上連なる巨大な山脈。

崑崙とはもともと中国の伝説上の山である。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母(せいおうぼ)がいると言われる。


(1) 霊界物語に登場する山。



水屋神社の
南西(熊野の神倉神社に近くなる方向)に
『大台ケ原山』がある

https://www.google.co.jp/maps/dir/%E6%B0%B4%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92515-1505+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E9%98%AA%E5%B8%82%E9%A3%AF%E9%AB%98%E7%94%BA%E8%B5%A4%E6%A1%B6%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%90%EF%BC%97/%E3%80%92519-2634+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%A4%9A%E6%B0%97%E9%83%A1%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E7%94%BA%E5%A4%A7%E6%9D%89+%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%B1%B1/%E7%A5%9E%E5%80%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92647-0044+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%B8%82%E7%A5%9E%E5%80%89%EF%BC%91%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%EF%BC%93%E2%88%92%EF%BC%98/@33.8174321,133.7359944,6.25z/data=!4m20!4m19!1m5!1m1!1s0x6004226e0da3737f:0xad67ac56035bc652!2m2!1d136.3158713!2d34.4348153!1m5!1m1!1s0x60068f307e4c4de7:0x76fa9fd9c7d822bc!2m2!1d136.1091955!2d34.1852589!1m5!1m1!1s0x60066cabae98e833:0xac29240976ec40d7!2m2!1d135.9827689!2d33.7221674!3e0




で、

カンだけでいうと

アメノコヤネの神ってのが
実は祝詞の神ってよりも
山の仙人とかで
崑崙山の仙人のような気がするね。

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 15:19:07

鳥取荒神神楽研究会さんはゆきんこ村四季彩にいます。
2017年6月15日 · Hino-gun ·
阿宮神能(あぐしんのう)
山の神(山神祭)

出雲市指定無形民俗文化財の神楽。
出雲流採物神楽だが、独特の所作もある。

演目「山ノ神」は、春日明神(アメノコヤネノミコト)が、岩戸開きに使う真榊を採りに行くと、それを見つけた大山祇命(おおやまづみのみこと)が、勝手に採ったことを咎める。
しかし、アメノコヤネノミコトが岩戸開きに使うものだと説明し、十握(とつか)の剣を授けると、大山祇命は剣舞を舞うというものである。
https://www.facebook.com/kaguken.tottori/posts/1343541162347886/



あ、ほら
春日明神てのは


外人なんですよ。

ま、崑崙山の山の仙人みたいな
イメージなんですね。

で、日本の山とかを
自分(崑崙)の山にみたてる、
龍脈つなぐ、
てな事をやってるのだと思う。

で、

人種としては何人かしらんが


今ウイグル人がいるあたりも
関係してるので
漢民族に限定されないという
考え方もできるかもしれませんよ。

仙人だしそんなに悪い事したらいけないですよね
ウイグルのほうが性格いいのに
日本と中国がグルでウイグル民族浄化とか

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 15:24:12

混沌五岳真形図説 - 日本古学アカデミーwww.nihonkogaku.com › content › report_bk
清風道人云、宮地神仙道においては五岳真形図を始め種々の霊図や符文を用いた修法が修道上不可欠とされておりますが、これ ... 四岳は中岳大崑崙を中心としてその四方に位する東岳・南岳・西岳・北岳でありまして、中岳の天柱地軸を中心として相連なりて ...

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 15:51:41

もう一つの大本の裏神業
 もう早くも10月10日である。また大きな台風が近づいているようだが、大災害になら
ないように祈るほかない。人間は自然界の現象に対しては無力であることが了解される。

今日は何を書こうかなあ、思ったら主題についてである。これは託された本人も大本の
裏神業という自覚はなかったものと思われる。不思議な縁で頼まれただけとしか、思え
ないことであるが、後で重要になってくる。

「巨人 出口王仁三郎」出口京太郎著(講談社発行)の418頁に次のように書かれている
ところがある。この本は古いもので1990年1月10日に綾部を訪ねた時に頂いたものです。

昭和十年十月六日、王仁三郎は播州(兵庫県)高砂沖に浮かぶ神島へ
恒例にしたがって参拝したが、そのとき、「神島参拝は今年で最後かも
しれない」と漏らしている。
同じく十二月四日、島根別院の大祭に出発する前日の真夜中、側近の
内崎が王仁三郎の奇怪な行動を目にした。
それは、王仁三郎がひそかに月宮殿に入り、ご神体をとり出して、他の
石ととりかえたことである。・・・・・

とあり、そのご神体は翌日に、笹目秀和という者に渡されたのであります。驚くのは、その
3日後に島根別院で出口王仁三郎(以降聖師)は検挙されて、大本第二次弾圧が開始
されるのであります。

ぎりぎり3日前に、大本の重要なご神体を取り換えて笹目氏に渡して、
官憲に取られないで済んでいるのです。そして、笹目氏はそのご神体を
崑崙山に収めることになるのです。

前日の十二月四日に、聖師は笹目氏に次のように言われたという。

「ご苦労さんやなあ、笹目さん、今度のご神事はわたしの
代わりに行くんやさかえ、しっかりたのみまっせ」

ということで、その神事は聖師の代理と云う事ですから、大変なことです。その夜は
日出麿宅に泊り細かい指示を受けて、前記したように翌日に聖師よりご神体を渡される
のであります。聖師は、その時にこう言われたという。

「笹目さん、これが大本のご神体どす。崑崙山の神仙が
あなたの来るのをまっておられるはずやから、その案内に
従いその指示するところに、このまま埋めておくれやす」

という言葉に従って、その使命を果たすことになる。かつて、笹目氏はモンゴルを旅して
いたので、それができたが、地図で見ると崑崙山はモンゴルの奥地ですから、普通なら
躊躇するが、すべてを見越して居ての聖師の頼みであった事が分かります。

ということで、主題について手短に書いてみました。

(参考文献)巨人 出口王仁三郎 出口京太郎著 
       モンゴル神仙邂逅記  笹目秀和著

(追記)検索して調べると月宮殿のご神体石は、みろく石ほか複数あったようで、どの石か
は特定できてないが、聖師が大本のご神体です、と言われておられるから一番重要な
ものと推定する。 

(追記2)1990年1月に初めて綾部を訪ねたことを書いたが、当時すでに大本は三派に分裂
していたことが、後でわかる。その後、霊界物語を手に入れて研究を始めて、とにかく
大本の原点を探っていたら、大本の裏神業があることが分かり、その大本の裏神業に
ついて研究することになったのであります。
(2019年10月11日追記) 

(追記3)このご神事には伏線があったことを書いておきたい。それは、かつてモンゴルを
旅したことを書いたが、白頭山の呂仙人に会い、その仙人から今後の使命について
言われた後に、
    「12年後に崑崙山に行くことになる」
   とも言われていたのである。それが、聖師から頼まれたことであったのですから、
驚くほかない。白頭山の呂仙人と崑崙山で出会うことになるシュロ神仙(500歳)とも
聖師は霊的につながっているということになりますから、聖師は俗人には分からない
経綸を遂行していたことになるわけです。このことが分かるかどうかに俗人と賢人の
境がある のです。   (2019年10月12日追記)

(追記4)聖師から渡されたご神体石は直径6センチの長さ30センチの竹の筒に密封されて
いたようで、ぶら下げられるように紐がついていたという。笹目氏は渡された直後に
出かけて、大連、奉天、北京経由で蘭州・青海のシュロ神仙の住む崑崙山系のシュロ山
に至るまでに半年を要している。
最終的に、ご神体石は崑崙山系のココリシ山中に収められたようであります。
  かつて、モンゴルを旅して白頭山の呂仙人に会ったのが1924年で、シュロ神仙に会う
ことになるのが1936年だから、ちょうど12年後となったのです。
              (2019年10月18日追記)

(追記5)前に追記で書いたように、ご神体石は複数あったようだが、一番大事な石は
   みろく石だから、みろく石が崑崙山系のココリシ山中に収められたと推察して
   いる。
     大本の実質的なご用はその時点で終了したとも受け取れる。あと残りの一厘
   は辻天水らが遂行する大本の裏神業でなされてゆくのであります。
                 (2020年7月11日追記)http://blog.livedoor.jp/corona_oomichiwake/archives/19688165.html




: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:51:06



布置は

7月31日の朝に ちょっと霊的な夢で、

何かおおきな河?水辺?
のむこうの
すごい緑色の崑崙山の山の斜面

を見ました。そのあとは別の山の中の
どこか(ヒマラヤか何かの中?)

にある
建物(の中にいる自分とか)がみえました。

※そこに、亡くなった身内もいました。


で、

また崑崙山の緑の斜面が
見えた最初の場面にもどって、

またそのそばの山の中のどこかの
建物(公共の建物ぽい)
の中にいる、

ってかんじの夢だったのですが、



朝おきて考えてみたら、


寝る前に

何か龍の形ってどんなんだっけ、
て思って

とりあえず

ドラゴンボールって内容
ほとんどしらないんだけど
(ものすごくおおざっぱ
にはしっている)

その
キャラの

シェンロン(神龍)
というキャラの
絵をみてからねたんですね。


布置は地名とか詳しくないので

崑崙山とかよくしらないのに
夢にでてきた。

で、
しらべたら

崑崙山てのは
軟玉が取れる土地で、
仙人の住処だとか、

伝説のシャンバラは
その崑崙山の奥にある
(グルジェフ?)

とかいろいろあったようです。;

んで、


その夢の緑の斜面の崑崙山なんて
実際にあるのかしりませんが、


とにかく
シャンバラって
まあ弁慶(アストラル体)


「鞍馬寺のあれは
たしかに
伝説のシャンバラみたいなものだけど
シャンバラって名前ではないよ」

なんていってるんだけど、
崑崙山が霊的な夢?で見えたのだから、
なんか
そのあたりの龍脈も関係あるかもしれない。

で、
神龍のシェンロンとコンロンと
なんか似てるね発音も。

ロンて何だ?龍?だっけ?

ま、それは後でしらべるけど、、

それが気になってたら

水屋神社に、
義経が
みた瑞雲の八幡さんの
旗がらみの八幡の額があると
わかったのです。

まあ、

義経は
興福寺と関係あるのですが

水屋神社も
興福寺と関係あるそうで、
興福寺はまあ東大寺の
ライヴァルというか
なんか仲間なのか
ライヴァルなのか

しりませんが、


御水送り~オミズトリと青衣の女人(は義経だ!)
って前回は東大寺(毘盧遮那の遮那は
遮那王だからそれも義経と関係)の
話してたので、

そのオミズ送りって
水屋神社が春日大社(春日大社も義経と関係ふかいようだ。)
にたいして
おくるって事をやってたそうで。

しかも龍神信仰もあるそうだし

龍がナーガだから象なのか
ガネーシャのネタなんかも
水屋神社の記事にはあって

(聖天は直接関係あるのかないのか。
十一面で関係するのかな?)


まだ
だから何なのかよくわかんないけど、

とにかく

オミズ送りって
記事を全部まじめによんでたら

途中で、
義経が瑞雲の中に八幡旗をみてその
関係の八幡の額があるんですよ、

とか、、、そういう記事がでてきたんですね。
ついさっき。

これは

むー

八幡といえば

宇佐八幡で東大寺(オミズ取り)関係ですからねこれも。
若狭の御水送りは何なのかよくわかりませんが、

布置の以前の霊夢では
3・11って霊的にものすごく
オミズ取りに関係あるらしくて

てことは
今回でてきた
水屋神社の義経関係の資料も
なんか意味あるのかも、、

とおもいましたね。

で、
水屋神社の龍神ってのが
なんか

朝の霊夢ぽい夢でみた崑崙山のシャンバラー
ぽいネタ
あたりまでつながっちゃうのかもしれません。








義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:54:05



ただ、布置って

ほんと地名音痴なので

崑崙山なんて
きいたことはあるが
スっとでてこない地名なんですよ。


んで、

最近
ウイグル問題で俺、さわいでるんだけど


ウイグルのあたりも崑崙なんですね、、


で、シャンバラーとか

仙人の玉と関係あって

玉といえば龍だもんね。


なんかあるでしょうね。


で、

水屋神社の御水とりは
よくわかんないけど

春日大社って
藤原氏系だからなのか、
すごい義経モエで
義経関係のあやしいグッズいっぱい
もってるんだよね。
あそこ

関係ないけど
賢治も
フジってつく人だし
藤原氏系なのかも?しらんけど。
京都からながされて
東北で繁栄してる、
とか奥州藤原氏みたいなやつだね。


で、
藤原氏とかこういう
崑崙山なんか関係あるのかもルーツとして。
しらんけど
おもいつきでいってみました


義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 00:56:33


源氏の人って
いつも

雲が、、八条の、、これは吉兆じゃ、、

とかそういうの先祖代々だよね。

なんだろう

ヤマタノオロチみたいな。


で、辞世の句
ってのが
義経記だからアレだけど
本人のタマシイが
あれは
辞世の句とか
そのあたりはホント
ていうので

布置もそうなんだー
だからよく大事な場面で
ヘンな彩雲がでるんだねー

なんておもってるんだけど

紫雲ってのも
やっぱ雲だし、

なんか雲すきなのかね源氏は。




義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 布置

2020/08/01 (Sat) 01:03:11


ま、義経の辞世の句は
仏教くさいけど紫雲なわけよ。


で、
水屋神社が
合祀した
義経の八幡系の額の由来は

「義経が吉兆の雲をみたから。
そこに八条の旗がみえたから八幡をまつった」

とか

八幡は
東大寺のあれでしょ。
(手向け山八幡)

神輿にのって
宇佐からウサ八幡が
東大寺にきたぐらいでしょ。

んだから
なんかオミズ取りとかって
何なのかなーと思う。





> ★源義経が、
文治の頃、吉野の山を出て
★伊勢神宮へ参詣の途次、赤桶の相模峠にさしかかるやいなや突然黒雲が起こり、
★八幡の旗が雲の中より翻ったといいます。
義経はこの吉兆に喜び、
そこに
★八幡社(後の★相模神社)を建立したと伝わっています。
★明治時代の末期にこの神社は
赤桶の秋葉神社や作滝の滝野神社などと共に
★水屋神社に合祀されました。


あと話とぶけど

日月神示とかって
大本裏神業の
北伊勢ってのを重視してたよねそういや。


で、コモノって土地には

伊勢三郎の首塚があるとか




検索結果
ウェブ検索結果

崑崙山 - オニペディア:出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典onipedia.info › wiki › 崑崙山
崑崙山(こんろんざん)は、. (1) 霊界物語に登場する山。国祖国治立命が太白星の十二個の玉を国魂として配置した「十二の山」の一つ。「コンロン山」とも表記される。 (2) 霊界物語第3巻第7篇の篇題。 本項では(1)について解説する。

笹目秀和 - オニペディア:出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典onipedia.info › wiki › 笹目秀和
また出口王仁三郎から大本の御神体を預かり崑崙山に鎮めに行った。




崑崙山
出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典
『オニペディア(Onipedia)』
コンロン山は日本だと大台ケ原に相応する。[5]

崑崙山(こんろんざん)は、

現実の山としては、中国西部に崑崙山脈がある。最高峰はコングール山で標高7,719m。6千m以上の山が200以上連なる巨大な山脈。

崑崙とはもともと中国の伝説上の山である。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母(せいおうぼ)がいると言われる。


(1) 霊界物語に登場する山。
★国祖国治立命が太白星の十二個の玉を国魂として配置[1]した「十二の山」の一つ。「コンロン山」とも表記される。
(2) 霊界物語第3巻第7篇の篇題。
本項では(1)について解説する。
主なエピソード
第1巻第28章(崑崙山での戦い)


第1巻第28章(崑崙山での戦い)
魔軍との戦いで大八州彦命は少数の神軍とともに天山に降りたが、「崑崙山に移れ」という天上からの声で、崑崙山に移った。

険峻な山に似ず、山頂は平原が広く展開されており、色々な草花が爛漫と咲き乱れ、珍らしい果実が沢山に実っていた。

胸長彦の数百万の魔軍は崑崙山の山麓に蟻の這ひ出る隙もないまでにヒシヒシと取り巻いている。その軍勢は十二の山道を伝って十二方より、一度に攻め上って来た。

大八洲彦命の軍勢は、そこに実っている桃の実を取って打ちつけた。たちまち敵軍は雪崩の如くに山麓に落ち込んだ。

このとき中空から大自在天大国彦の魔軍が攻めてくる。大八洲彦命らは桃の枝を折りそれを左右に打ち振ると、魔軍の姿は消え失せた。〔第1巻第28章「崑崙山の戦闘」#〕

第3巻第23章(君は君、臣は臣)
崑崙山一帯の地方は太平無事に治まっていた。八王神の磐玉彦は、瑞祥の世には八王神の聖職は無用なので辞職して下野したい、と願う。

その件につき竜宮城で国直姫命が神勅を乞うと、君は君、臣は臣、わがまま言うな、神慮のままに生きろ、という厳命が降りた。

磐玉彦は前非を悔い、その後数百年間は泰平の世が続いた。〔第3巻第23章「鶴の一声」#〕


コンロン山は日本だと大台ケ原に相応する。[5]
https://onipedia.info/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99%E5%B1%B1


大台ヶ原山

大台ヶ原山(おおだいがはらやま)は奈良県と三重県の県境にある標高1695.1m[1]の山

最高点の一等三角点は基準点名が「大台ヶ原山」であるが、国土地理院による地図には日出ヶ岳(ひでがだけ)と表記され[1]、三重県の最高峰である。三津河落山(さんずこうちさん)や経ヶ峰(きょうがみね)など、標高1400mから1600mの複数の山[3]と、これらの山に囲まれた東西5 kmほどの台地状の地帯は大台ヶ原(おおだいがはら)と呼ばれ、奈良県吉野郡上北山村と同郡川上村および三重県多気郡大台町(旧宮川村)にまたがっている。大台ヶ原は吉野熊野国立公園の一部として指定され、特に景観を保護するため[4]に特別保護地区に指定されている[5]。

大台ヶ原は吉野熊野国立公園のひとつ
に指定されていて、中心付近の標高1,573.7m地点には大台ヶ原の自然や歴史を紹介する施設として「大台ヶ原ビジターセンター」が建てられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%B1%B1


水屋神社の
南西(熊野の神倉神社に近くなる方向)に
『大台ケ原山』がある

https://www.google.co.jp/maps/dir/%E6%B0%B4%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92515-1505+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E9%98%AA%E5%B8%82%E9%A3%AF%E9%AB%98%E7%94%BA%E8%B5%A4%E6%A1%B6%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%90%EF%BC%97/%E3%80%92519-2634+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%A4%9A%E6%B0%97%E9%83%A1%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E7%94%BA%E5%A4%A7%E6%9D%89+%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%B1%B1/%E7%A5%9E%E5%80%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E3%80%92647-0044+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%B8%82%E7%A5%9E%E5%80%89%EF%BC%91%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%EF%BC%93%E2%88%92%EF%BC%98/@33.8174321,133.7359944,6.25z/data=!4m20!4m19!1m5!1m1!1s0x6004226e0da3737f:0xad67ac56035bc652!2m2!1d136.3158713!2d34.4348153!1m5!1m1!1s0x60068f307e4c4de7:0x76fa9fd9c7d822bc!2m2!1d136.1091955!2d34.1852589!1m5!1m1!1s0x60066cabae98e833:0xac29240976ec40d7!2m2!1d135.9827689!2d33.7221674!3e0




義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 16:00:49


> ★源義経が、
文治の頃、吉野の山を出て
★伊勢神宮へ参詣の途次、

★赤桶の~峠にさしかかるやいなや突然黒雲が起こり、
★八幡の旗が雲の中より翻ったといいます。
義経はこの吉兆に喜び、
そこに
★八幡社(後の★相模神社)を建立したと伝わっています。
★明治時代の末期にこの神社は

★★水屋神社に合祀されました。








笹目秀和 - オニペディア:出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典onipedia.info › wiki › 笹目秀和
笹目秀和(ささめ しゅうわ)(1902 - 1997)は仙人。道院の修方(会員)。東京多摩道院統掌。 白頭山で神仙(仙人)に会い、自分の使命を聞かされる。また出口王仁三郎から大本の御神体を預かり崑崙山に鎮めに行った。






出口 王 仁三郎 子孫: my blog のブログ - ココログplscotthr19.cocolog-nifty.com › blog › 2020/06
出口王仁三郎が残した根本経典『霊界物語』の教えにもとづき、救世主神・神素盞嗚大神 ... 御神体山である本宮山(ほんぐうやま)を中心に神苑が設備され、また近くには歴代 ... このモンゴル入りと、笹目秀和による教団のご神体の崑崙山中への返還である。 ... 【源の義経】だという伝説話を創り出しましたが、義経とは過去の人のことであり、現代で ...




出口王仁三郎が源義経が韃靼に渡り成吉思汗になったという ...detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › ... › 超常現象、オカルト
2011/05/18 - 出口王仁三郎の『三鏡』という本です。 内容は支離滅裂なトンデモ本です。 すでに、史学では源義経が成吉思汗になったということは全否定されており、出口王仁三郎の説も全く相手にされていません。




まあ
ジンギスカンってのは
日本陸軍がひろめたおおウソ
なんだけど、

つまり世界に通じる英雄て
事をいいたかったのでしょ、

そして、

源氏とも関係の深い藤原氏が
そもそも大陸の人なわけね



出口王仁三郎
コンロン山は日本だと大台ケ原に相応する。[5]
https://onipedia.info/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99%E5%B1%B1


大台ヶ原山

大台ヶ原山(おおだいがはらやま)は奈良県と三重県の県境にある標高1695.1m[1]の山



Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 16:12:26





検索結果
ウェブ検索結果

境内と周辺 - 水屋神社www.mizuya.org › 06_keidai › keidai
義経はこの吉兆に慶び、ここに八幡社を建立したと伝えられています。明治四十年、水屋神社に合祀されました。 さざれ ...

水屋神社mizuya.org › 01_shimpo › heisei17 › shimpo_168
先代の良任宮司の著「ふるさとの訛なつかし」(三重タイムズ社刊)一四二~三頁にすでに書かれていますが、当社には源義経由来の額があります。 源義経が、文治の頃、吉野の山を出て伊勢神宮へ参詣の途次、赤桶の相模峠にさしかかるやいなや突然黒雲が ...

創建由緒と御祭神 - 水屋神社www.mizuya.org › 04_gosaijin › gosaijin
千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。その後、大化4年(648)奈良の三笠山から素盞鳴命、龍神姫命を勧請す。和銅3年(710)興福寺東門院領「閼伽桶の庄」


この度、氏子の角谷浩志氏から一枚の大きな古地図が届けられました。感謝申し上げます。明治二十一年編纂の赤桶の地図のようである。地図の下部には赤桶村戸長を始め、境界を接する村々の戸長数名の署名がある。
 私にとってとくに興味深いのは赤桶地内数カ所に点在する鳥居のマークです。実際、水屋神社は明治二十四年の神社合祀令によって赤桶地内の六社と作滝地内の瀧野神社を水屋神社に合祀したものと思われる。これらの神社跡地を私は以前から探索しています。すでに片栗子の、源義経が創建したと伝える相模正八幡宮と、作滝の瀧野神社跡は皆様のご協力で既に確認済みです。
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei15/shimpo_151.htm



水屋神社は

義経が吉野から
逃げてきて、見た瑞祥と関係がある
土地のそばにあるから
義経の八幡が合祀されたんだし、

オニザブロウが考えた
「日本の崑崙山」
あたりのイメージに近いし、

オニザブロウが考えた崑崙山ってのは
なんか
バケモノとの闘いにかつ、
てイメージがあるようだし

オニザブロウは義経のコスプレをして
大陸にわたっている義経ファンである。

だから
日月神示もいろいろ
義経モエを隠して
当局(カマクラ=日本国体)
の弾圧をふせいでいるが、
ヨシツネの味方のはずなのです。

で、崑崙山はいまウイグル人とか
漢人がいるあたりなのか、
神話の土地だし
日本の神話のルーツは
神道とかにしても
藤原氏が大陸人だから、
多分このあたりにあると。

でその悪い面としては
いろいろのっとりをしたり、
すりかえしたりだけど

もともとの
ルーツである崑崙山の神の
姿に戻したほうが
そういう背のりと関係ない
んじゃないか?
というかんじがしますね。

シナ神話より邪悪なのは
ジャップ神話なのです。
だから

春日神をルーツの姿に
もどしたほうがいいわけですよ。
ひょっとしたらウイグル人の神かもしらんよ。
シャンバラかもしらんよ。
崑崙山とかだと。

で、


日本では
日本版のコンロン山に「みたて」として該当する
土地としてもまあ
その
オニザブロウが

熊野よりの大台ケ原山が「日本版コンロン山」
で、
そこに行くにも
近い場所が水屋神社とか
義経がそのあたりに
まつってた八幡さん(今水屋神社に合祀されてる八幡)のようだ。



義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 16:27:00

舞楽面 崑崙八仙(ころばせ)

 崑崙山(こんろんさん)に住むという八人の仙人を舞う舞が崑崙八仙で、羽を広げたような甲を被り、尖(とが)った嘴(くちばし)の先端に鈴を吊した、鶴をかたどった面。
https://nohmask21.com/korobase.html


奈良・春日大社に残る、鳥に化身する仙人の舞楽面「崑崙八仙ころばせ」は、迦楼羅と同じく顔が緑色で鈴を垂らしている。

https://www.yomiuri.co.jp/shosoin/sekai/20191015-OYT8T50053/

崑崙八仙(ころばせ)については、南都楽所(春日大社の宮司や民間人から成り、奈良の楽団を伝承し、雅楽の公演及び研修並びに研究、調査等に関する事業を行い、雅楽の振興と普及に寄与する団体)の三石貴之氏の解説によると、

単に八仙(はっせん)とも言います。昔、崑崙山の8人の仙人が帝の徳を慕い来朝し、この曲を舞ったと言われています。仙とは仙離にして鶴のことで、即ち鶴の振舞う姿を象ったものであります。
装束はかなり独特でTシャツ型で鯉の刺繍がされ網がかけられた袍を着ています。鶴を象徴した面に羽毛を象ったかのような極彩色の甲をかぶり四人で舞います。https://note.com/josh_wonasu/n/n678f345b2fb9




あっ布置がみた
崑崙山の夢では
たしかに釣りをしてるひとがいました。


あと、

えーと、


出口オニザブロウがいう
「日本のコンロン山」
は、もうすこし熊野よりですが、
でも
まあ「水屋神社」
のあたりにもわりと近いといえば
近いとおもいますね、、

で、そこで義経は
黒くもから
八幡の旗だか
八条の旗だかがひらめく
霊夢をみたとか、
霊夢は吉野でみて、
のがれてきて
雲の中に旗をみたとか
とにかく瑞祥があって、

水屋神社の
傍に八幡をまつった、
んで今は合祀されてると。
そういうわけなのですが、

水屋神社のそばの
クシダ川?
とかいうのがすごい
綺麗な川で
鯉なんかがいるそうだよ

釣ったらだめですよ

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 16:30:58


和歌山街道沿いの水屋神社   2014-12-6参拝  2014-12-16

ここには伊勢と春日(奈良)の国分け伝説があります。
そして飯野高宮という元伊勢の伝説もあります。

春日大社なのになんで元伊勢か?と言いますと、合祀されてしまったんですね><
なんで元伊勢を春日を一緒にするのかね?

水屋神社斎館に「正八幡宮」の扁額
が掲げられています。
「源義経が文治の頃吉野の山を出て伊勢の神宮へ参詣の途次、今のサガミ峠にさしかかるや突然黒雲が起こり、
八幡の旗が雲の中よりひるがえった」(勢陽俚諺)といいます。

義経はこの吉兆に慶び、ここに八幡社を建立したと伝えられています。
明治40年、水屋神社に合祀されました。

義経の建てた神社を合祀しちゃったか~
まあ神社を維持していくのは大変なことはわかるけどね;;


閼伽桶の井は神社から700m離れた場所にあるらしいです。
今でもお水を桶二振りを運ぶお祭りだそうです。

境内の裏には櫛田川
http://jummy1015.blog91.fc2.com/blog-entry-278.html?sp

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 17:02:27

国治立命(くにはるたちのみこと)は、霊界物語の登場人物。国常立尊の「仮称」。

第2巻総説#の末尾に「(註)本巻において、国治立命、豊国姫命、国大立命、稚桜姫命、木花姫命とあるは、

神界の命により仮称したものであります。しかし真の御神名は読んで見れば自然に判明することと思ひます」と書いてある。
https://onipedia.info/wiki/%E5%9B%BD%E6%B2%BB%E7%AB%8B%E5%91%BD

崑崙山(こんろんざん)は、

(1) 霊界物語に登場する山。国祖国治立命(くにはるたちのみこと)が太白星の十二個の玉を国魂として配置[1]した「十二の山」の一つ。「コンロン山」とも表記される。

(2) 霊界物語第3巻第7篇の篇題。

https://onipedia.info/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99%E5%B1%B1

出口王仁三郎の崑崙山脈での正三角形


出口王仁三郎に頼まれて崑崙山脈の近くに御神体を埋めにいった話が出た。二つの山(笹目仙人はその山名を言っていたが忘れてしまった)と正三角形をつくる場所に埋めて欲しいということだったという。立ち読みした笹目仙人の本では、笹目仙人は現地に向かい、そこである仙人と落ち合うと、鶴という空を飛ぶ仙人の乗り物である場所に行き、降りた近くの御神体を埋めるのに相応しそうな場所に埋めてきたというのである。


大本教の出口直や出口王仁三郎が本物かどうか以前から判断がつきかねていた。出口直の苦労ばかりの生涯をみれば、彼女に憑った霊が高級霊であって欲しいと思うのだが、首をかしげたくなることもいっぱいあったからである。しかし、笹目仙人が会った仙人がマスターのことなら、出口直や出口王仁三郎を基本的には信じていいということになるであろう。笹目仙人の話が本当で、彼の会った仙人がマスターだった場合の話であるが、もし直や王仁三郎に憑った霊が低級霊や邪悪霊ではなかったとすれば、彼らに対する疑問は、彼らに憑った霊は単に当時の日本の霊的水準に合わせただけで、その日本の霊的水準が低かったことから生じただけかもしれないし、霊界通信には、絶えず霊媒の潜在意識が入り込んでくるし、シルバーバーチによれば、時には意識的に霊媒の潜在意識を吐き出させることもあるというが、直や王仁三郎には潜在意識が少し出すぎているのかもしれない。


鞍馬山の出修の次に元伊勢水の御用が行われる。水晶の水を汲んだという元伊勢の天の岩戸の産盥、産釜は元伊勢内宮の皇大神宮と日室山(城山)の間を流れる宮川の岸にある岩戸神社近くにある。鞍馬寺からの西北30度線は正確には元伊勢外宮の豊受大神社近くの矢部山近くを通るが、その方位線を挟むように皇大神社の神体山である日室山と外宮である豊受大神社がある。天の岩戸の産盥、産釜も鞍馬寺の西北30度線上にあるといえるかもしれない。どちらにしても、鞍馬寺の西北45度線上に元伊勢の籠神社があり、西北30度線上には元伊勢の皇大神社・豊受大神社があるという言い方はできるであろう。高熊山岩窟・鞍馬山の方位線上に伊吹山があるが、地球上に無数にある気流の通路・交差点である伊吹戸中の伊吹戸といわれ、その東西線上に元伊勢内宮がある。


 元伊勢の水の御用と出雲大社の火の御用は対になっている


教団は認めていないが、王仁三郎に命じられて密かに行われた裏神業というのがあるのだという。以下、中矢伸一『出口王仁三郎 大本裏神業の真相』によるが、その裏神業を行った一人が辻天水で、彼は第二次弾圧の直後、護送される途中の大津駅で王仁三郎に後の仕組みを託され、郷里の三重県菰野町に帰ると、王仁三郎が布石の仕組みを残した全国の霊的地場を訪ね歩いた。


大本教は伊勢・元伊勢の部分だけで活動しているともいえるわけである。 直もまた基本的には記紀の呪縛から逃れられなかったともいえ、出雲神族の神を世に出せなかったともいえる。ただ、「むかしのまことの神々様は、おすがたはみなながもの(長物)でありますそうな、てんせうこうだいじんぐう(天照皇大神宮)も、つきの大神さまも、りうぐうのおとひめさまも、おすがたは大蛇といふことじゃ。そうでなければ、とても三千せかいのたてかへはでけません。大蛇が一ぺんすっととうりたら、せかいは一ぺんにどろうみになるとのことじゃ。こんどの世のたてかへは、世にでゝござる神さんや、くろうなしのやす神ではまにあはんのぢゃ。」というようなお筆先をみると、基本的に直の神は龍蛇神であり、その意味では出雲神族の神にも通じるといえる。

 王仁三郎が出雲神族の神に冷淡なのは、国学的・国家神道的傾向だけでなく、その出自からくるのかもしれない。王仁三郎の実家の上田家は天兒屋根命の子孫とされるから天孫族であり、王仁三郎は有栖川宮熾仁親王の落胤ともいわれるが、もしそうなら天孫族中の天孫族ということになる。もっとも、王仁三郎は『我が半生の記』の最初で「王仁は祖先が源平であろうと、藤橘であろうと、將又その源を何の天皇に発して居ようと、詮議する必要はない。ただ、王仁は日本人であって、畏くも天照大御神様の御血統の御本流たる天津日嗣天皇様の臣民である事だけは、動かぬ事実だ。」と記しており、その出自などはどうでもいいことだったかのように語っている。

http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/oomoto.htm

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 17:12:41


出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年旧7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)

強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。

その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難を浴びる[3]。

その評価は現在でも定まっていない[4]。

いわゆる「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、

自身も7年近く拘束された[5]。

太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去した。




王仁三郎の葬儀の様子
1942年8月7日に保釈されると、亀岡の農場に戻って家族と共に暮らした[190]。1944年(昭和19年)12月、京都府清水の窯元佐々木松楽の亀岡疎開を知って尋ね、陶芸をはじめた[191]。祝詞を唱えながら体調を損ねるほど没頭するなど、宗教的情熱に満ちた芸術活動だった[192]。王仁三郎は松楽が京都から持ち込んだ10-15年分の陶芸材料を1年で使い果たしている。この楽焼は後に「耀盌(ようわん)」と称され、現在もなおその美術的価値は国内外で高く評価されている[193]。


大宅は再び王仁三郎について回想する。霊能力については懐疑的だが[251]、「いずれにしても王仁三郎という男は、奸智に長けたところもあるが、ひどくまぬけたところもあって、憎めない。一見"百姓上がりの武者小路"という感じだが、インテリでないだけに、もっと豪快で、スケールが大きい。」と評し、その人気は人柄・人間的魅力・天才的な人心収攬術に由来したと指摘する[252]。
宗教専門紙中外日報の社主真渓涙骨は「私は、直接間接に随分多くの人間を知ってきたが、未だかつて聖師(王仁三郎)のごとき、羽目のはずれた脱落超風の超人的野人に触れたことがない。パアーとした大風に灰をまいたような、どこといってとらえどころのない、大賢か、大愚か、豪傑か、凡俗か、かつてこんな得体の判らぬ怪物に触れたことがない。口を開けば、諧謔とユーモアの濫発で、エロ、グロの明暗両相、どこがこの人の本質だか、真面目だか、サッパリ見当がつかない。それでいて汲めども尽きぬ愛情に、世の一切を包み、底知れぬ魅力に万人の心をつかんで離さない。まったく超人的の異彩を放っていると思う」と評している[253]。
平塚らいてうは大本信者の姉を持ち、大本に興味を持っていた[254]。らいてうは教団誌「人類愛善新聞 昭和7年8月上旬号」の寄稿記事で『霊界物語』とエマヌエル・スヴェーデンボリの関係性を指摘し、「出口聖師のあのつかみ所なき大きな人格に私共とて同様に世人も、もっと信頼を置いてよいのではないかと考えてゐる次第で御座います」と述べる[255]。大戦中、らいてうは王仁三郎の予言を信じて東京から疎開、戦後も大本関係者と交流を続けた[256]。
柳田國男は戦後「出口王仁三郎なんて日本人じゃない」と批評した[257]。
レフ・トルストイの影響で新しき村を建設した武者小路実篤は谷口雅春(当時は大本在籍中)に対し「君には某子(王仁三郎)が耶蘇の再生に見えるのですか」と問いかけ、また雑誌『新天地』の記者に「大本教は理性に反する処が多いので無視しています。調べる気もありません」と述べた[258]。
大本から独立して世界救世教を開いた岡田茂吉は、昭和27年に出口虎雄(王仁三郎の娘婿)に「おやじ(王仁三郎)は大きかった。おやじが懐かしい」と述懐した[259]。
谷口雅春と江守輝子は大本在籍時に結婚、式には王仁三郎も出席し、教団内結婚式第一号となる[260]。昭和55年8月の取材で、輝子は王仁三郎について和歌を詠む時には不思議な能力があったこと、雅春もある面で王仁三郎の特異な能力を認めていると答えた[261]。
今東光(天台宗僧侶)は「日本宗教界で怪物扱いされたのは王仁三郎と一休宗純だけだ」と週刊女性昭和42年1月21日号で述べている[262]。
エルンスト・クレッチマーは循環気質の指導者を「果敢な猪突猛進主義者、スケールの大きい敏腕な組織者、宥和的懐柔的な術策者」の三型に分類し、前二者の牽引力は軽躁性の要素に負うとしている[263]。精神科医宮本忠雄は、前述の要素を全て備えた者が王仁三郎とする[263]。また王仁三郎の「手をひろげすぎて失敗する」というパターンは、軽躁的性格に起因すると指摘する[264]。宮本は、宗教・事業・思想・勉学・芸術のあらゆる物に興味を持ち臨機応変に取り込んで成長する王仁三郎について「彼の一生は要するに混交的肥大の生涯だったと考えても間違いあるまい」「多くの支流を統合し、清濁を併せ呑む大河。氾濫は河の意思ではなく、流域の水が河へ流れ込む為である。『パラノイア川』と名づけるにはあまりに濁りが目立ち、『妄想江』と呼ぶには河水と堤防とがあまりに調和している。途中に奇岩怪石の立ち並ぶ急流の箇所もあるが、河全体の景観を変えるほどのものではない」と評した[265]。
青年時代に「安閑坊喜楽」と号して冠句を残すなど、多芸多趣味であけ広げで気の置けない人柄であり、どんな時でもユーモアを忘れなかった[266]。第二次大本弾圧の裁判時、検察側の主張を煙にまいて法廷内に笑いが起きたほどである[267]。


王仁三郎は教典『霊界物語』第64巻で日ユ同祖論を論じ、「王仁はユダヤのことを悪く書いたことはない」「ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。ユダヤは三分の一は良いので三分の二は○いので、之がフリーメンソンをやってゐるのである。今の戦いは之がやってゐる。イスラエルの十二の氏族は選ばれたのや。一番いいのが日本へ来てゐるので日本民族や」「ユダヤが暫く世界を統一する。それから○○の番だ」と語る[300]。王仁三郎の日猶同祖論は、後発の日月神示や宇田川豊弘の日本エホバ教団(昭和25年)等に影響を与えた[301]。なお、『霊界物語』にも登場するユダヤ教の聖地エルサレムは大本発祥の地である綾部と姉妹都市を結んだ際には大本の教主が署名式に出席して祝辞を述べる[302]などイスラエルは大本との繋がりを持っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E


義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 17:19:17

破壊
第二次大本事件により大本の聖地は当局により徹底的に破壊された。昭和11年(1936年)5月11日から6月12日までおよそ1ヶ月かけて破壊作業が行われた。

石とコンクリートで造られた月宮殿は、

★ダイナマイト1500発以上を使い、
★21日間かかって破壊された。[7]


十字形の理由
月宮殿や長生殿の基礎が十字形になっている理由について王仁三郎は──神様には裏表がないので、どちらから見ても、裏も表も同じ形になっている、また大本神諭に「世界十字に踏み鳴らす」とあるし、キリスト教も卍も大本裏紋もみな十字であり、経緯、天地水火が揃った徽章を自然と持っている、この徽章通りに神殿を造らせていただき、天も地も清浄に真釣り合わそうということで十字型にした──と述べている。[8]

崑崙山に鎮められた御神体
昭和10年(1935年)12月4日、笹目秀和は
★大陸へ旅立つ直前に綾部に寄り王仁三郎と面会した。その時、王仁三郎に依頼され、
★月宮殿の
★御神体を預かり[9]、それを
中国の
★★崑崙山脈(崑崙山)の某所に鎮める★★
という神業を行った。→ 「笹目秀和」の項を参照。


その出来事は本人の自伝『神仙の寵児』に記されているが、
『大本七十年史』に次のように記されていることが傍証となる。
「一二月四日島根別院の大祭に出発する前日の真夜中、

聖師がひそかに月宮殿にはいり、ご神体をとりだして、

他の石ととりかえておいたことを側近の内崎照代がうかがいみたといわれているが、

それは極秘にされて、他へはもらされなかった。」[10]



木庭次守編『新月の光』によると、王仁三郎は月宮殿について次のように述べている。
月宮殿の下には、矢田の奥から水が流れ出ていた。

月宮殿の基礎の岩がタテで火で、それに水が噴出して、ヨコになってきて、十字をなしている。(大正14年初)[14]

「帝都が安全なように「君が代は千代万代にさかえませと石もて造りし月宮殿かな」と祈って、

月宮殿を石で造った。その時に、これを壊すのは大変だと言っておいた」(昭和17年11月16日)[15]


月宮殿は宮城(皇居)に当たる。宮城が安泰であるように石で築いて「岐美が代は千代万代に動かざれと石もて造りし月宮殿かな」と祝ってお祭りしてあったのに、破壊したから、宮城もやられる。(昭和17年8月~20年)[16]

大国美都雄著『真偽二道』によると、建築中の月宮殿に夜何者かがイタズラして、作りかけたところを傷つけたり、貼り付けた石を剥がしたりされた。

警備中、

★人影を見つけて追うと人間とは思えぬ速さで姿を隠してしまう。

その妨害工作は月宮殿完成の日まで続いた。そのことを王仁三郎に話すと、「それは悪霊が憑依していたのだ。

月宮殿ができることは

★霊界では非常に恐威

であり、

★作らせないように妨害するためであったが、神界からの加護があり、それらの霊は完成と共に逃げてしまった」と言った。

王仁三郎は月宮殿の造営が始まると東北から北海道まで巡教に出かけたが、それは悪霊を引きつけておいて月宮殿の工作に邪魔が入らないようにしたのだ、と語った。〔同書p130〕

https://onipedia.info/wiki/%E6%9C%88%E5%AE%AE%E6%AE%BF

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 17:28:53

ご苦労さんやなあ、笹目さん、今度のご神事はわたしの代わりに行くんやさかえ、しっかり頼みまっせ」。続いて、笹目師の活動を妨害している、「金毛九尾(きんもうきゅうび)の狐」の凄まじい魔障と『霊界物語』(注1)との関連について、解説を受けたりしました。それからの次第は、『モンゴル神仙邂逅記』から引用させていただきます。



「あんたはん、いつ発たれますか」

わたしがまだなんの説明もしていないのに、突然そうたずねられた。モンゴルにいつ行くかという問いである。

「今夜にも発ちたいと思っています」

「今夜は日出麿(ひでまる-注3代目の女婿で聖師の補佐役)との出会いが必要だっせ。崑崙山に納まり願うご神体、夜半に勧請(かんじょう)しておきますさかえ、ゆっくり休まれて、明日の朝きておくれやす」



ということなので、その夜は、夕食は王仁三郎師ご夫妻とともにし、宿泊は日出麿邸ということになった。

8時すぎに、祖霊社の近くにある日出麿師の住居にお伺いすると「待ってましたがな、早うおあがりやす」と、気軽に迎えてくれた。



しかし、お茶などいただいたのちは、きびしい口調になり、

「西北の天地は暗雲低迷していて、ご神業の展開は容易なことではない。けれどもあなたをおいてはこの任務を遂行できる人は見当たりません。だからあえていばらの道を押し進んでもらうよりほかないですね。任務のかなめは、崑崙山中に大本のご神体を納めてくることです。主神(すしん)はあなたに絶大な期待をかけておられますから、自重してください」



つまり、わたしに大本のご神体を託すから、崑崙山にお鎮めしてこいということなのだ。

突然の話である。それを当然のことのように言われるのは、どうしたことだろう。わたしが今日、ここにくるのがわかっていたようではないか。



「白頭山の呂神仙のおっしゃることには、寸分の間違いもないでしょうね」

「あの仙師は、素尊(注-神素盞嗚尊・かむすさのおのみこと)の御代様として降臨しておられ、いっさいの俗を離れておられる方ですから、言語動作に寸毫(すんごう)の誤りもないことを断言します」

「12年前に命じられた崑崙山行きを決行するわけですが、大本のご神体のことと、使命は別ですか」

「いずれも素尊からでていることで、決して別のことではありません」



そのほかに細かいことをいくつかたずねた。最後に日出麿師はこういって哄笑された。

「やがて地球の裏表がひっくりかえるようなときがくると、大本神業の地場が崑崙山中に移らないともかぎらないからね」



その笑い声はわたしの腹の底にしみ通った。日出麿師のこの言葉が何を意味するか、おそらく百年後でなければだれにもわからないであろう。



翌朝は未明に起きて、鶴山に登っていった。王仁三郎師はすでに起きて、玄関に立ってわたしを待ち受けておられた。



「笹目さん、これが大本のご神体です。崑崙山の神仙があなたのくるのを待っておられるはずですから、その案内に従い、その指示するところに、このまま埋めてください」

そう言って渡されたものは、直径6センチ、長さ30センチくらいの孟宗竹に密封され、全体に黄色の漆が塗られていた。

「確かに使命を果たさせていただきます。なにか、尊奉すべき言葉がございますか」

「なにもない。ただ口外を慎むこと」



この聖師のお言葉に千金の重みを感じた。

竹の筒からは、紫色の光彩が放たれているように感じられた。  (引用終わり)



こうして出口聖師から「大本のご神体」という途方もないものを託された笹目氏は、その日のうちに大陸へと発ち、“齢五百歳”という疏勒(ショロ)神仙の棲む崑崙山へと向かうことになるのです。



そして、ご神体を預かった日から3日後の昭和10年12月8日未明、日本のその後の歩みにとって極めて重要な意味を持つ「第二次大本弾圧事件」が起きました。出口聖師や出口日出麿師をはじめ数多くの関係者が投獄され、神殿や本部施設はダイナマイトで爆破され、拷問により発狂する者も出るほどの大弾圧でした。





3.疏勒神仙との邂逅



大陸に入った笹目青年は、崑崙山を目指して言語に絶する厳しい旅を始めました。東蒙古から、蘭州、青海を経て進んで行くのですが、当時の中国奥地は、馬賊匪賊が横行し、民も無知蒙昧で、いつ命を失うか予想だにしない状況にありました。やっとのおもいで、崑崙山系のハラノール湖水を頂く疏勒山にまで至りました。



疏勒山には、霊的に地球の呼吸調整を担う、齢五百歳の疏勒神仙が御座し(おわし)、30家族に満たない疏勒族がこの神仙に奉仕しております。同行してきた通訳とともに疏勒族の長に会うと、「神仙は、天地の呼吸を調整され、俗界のことに携われば狂いが生ずると、一切人には会われません」とにべもない。

「承っております。ただ一言でよいから『東からナラン・トルムと云う者が来ました』とだけお伝え願えませぬか」



族長から報告がありました。



「神仙は、長く客人をお待ちであり、すぐお連れするように」とのことでした。

「通訳の心配はいりませんか」

「心配は無用だと思います。あなたの話しやすい、何処の言葉で述べても、神仙は通訳なしで理解され、神仙の言葉も、あなたの最も理解されやすい言葉でお耳に入ってくると思います」

この点は、白頭の呂霊來神仙の場合と同じのようです。



族長と二人、青空のもと、馬で樹林帯を抜けると、ささやかな小川の流れがあり、苔むす岩盤に覆われた洞窟が見えました。一人の老人が洞窟の前に立ち、にこやかに迎えてくれました。洞窟内にもう一人の老人が居り会釈してくれましたが、彼ら二人は神仙に近侍する者でありました。



そこでしばらく待つうちに、30メートルばかり離れた仙師の洞窟に案内されたのです。洞内の奥に胡座する神仙は、一見、子供かと思えるほど小柄で、顔は童子のように生き生きとした赤ら顔でありました。



神仙は、笹目青年への祝宴を催してくれました。木の椀に注がれたのは、36種の草根木皮で造られ地下に100年醸された長寿の酒、神仙酒で、酒の肴は、木の芽数種の塩煮であります。飯は、胡桃を大豆の大きさに砕いたものに、ザンバを混ぜて炊き上げたもので、風味があるものでした。



「仙師におききしたいのですが」

「よろしい、遠慮なく云ってご覧なさい」

「地球は、球表面全体で呼吸しておるものであり、特定の白頭山とか崑崙山で呼吸するものではないと思っておりましたが……」

「人間は本来、身体全体で呼吸する胎息であった。ところが何万年かの後、身体の表面の気孔が汚染され、呼吸ができなくなり、鼻腔呼吸となり、それが呼吸と思うようになった。坎水印と離火印の法は胎息にもどす。人間の胎息は、やがて、この地上を明るく平和にし、大地そのものも自然呼吸に戻って行く」

「では、白頭山や崑崙山の地上の鼻腔的役割が必要なくなるという事でしょうか。それでは、仙師もお役ごめんとなり、失業神仙となられるのではないでしょうか……」

「はっはっはっはっ。それを願うところだ。だが、地上はますます空気汚染や自然破壊が進み、胎息は無論のこと、鼻腔呼吸まで圧迫されている。このままでは自壊作用か大爆発が起きる。地球生命の維持さえ難しくなる。これを救うのは人間の捨身的献身や活躍によって、胎息にもどるための還元法をもって指導する以外に道はない」

童顔そのものの神仙だが、ひとたび口を開くと、容易ならざる威圧を感じさえするのでした。



翌朝の暁暗、数十の薬草の粉末を水に溶いた仙人茶をいただきました。これ一椀で、一日の身を養うことができるとのことです。



「しばらく、汝の肉眼を閉じることにする」

仙師は、笹目師の瞼の上を抑え、何やら咒(じゅ)を誦(ず)しました。

「わが腰の辺りをしっかりと握りしめておれよ。これを離すと下界へ真っさかさまだ。天帝のつかわし給う鶴仙に乗る」



空中にフワッと身体が浮かんだ感じがしました。そのうちに寒気のために全身が引きちぎれそうな痛さから気を失ってしまいましたが、気が付いてみると身体が温まっていて、侍者が全身を摩擦してくれていたのです。ここで教えられたのが、太陽を食む秘法「離火印」でした。



離火印だけで五体は熱くなり、標高7,700メートルの崑崙山脈最高峰モヌマーハルの寒冷な山上で、食物もない修行に五日間耐ええたのです。東天に浮かぶ太陽に向かって離火印を結び、結印鎮魂のまま端座して一夜を明かしました。翌日も山頂に上り、旭光を浴びての離火印によって、不思議と腹はへらず、丹田は懐炉(カイロ)でもいれたかのように暖かいのです。



午前の鎮魂が終わると、一椀の仙人茶をいただきます。その際に、笹目師は疏勒神仙から驚くことを聞くこととなります。



「欧州では、とんでもない計画が進んでおり、そのため世界は混乱状態となり、その計画をすすめた者は破滅の道をすすむであろう」

「欧州のどんな人たちが、その計画に参加しているのでしょうか」

「ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンらで、汝の国の者どもの大部分が彼らに踊らされる結果となるであろう」

「仙師は、外界と一切遮断された生活をされているのに、どうしてドイツやイタリア、そしてソ連などのことがお分かりになるのですか」

「宇宙を主宰する神は、虫けらの動きまでご存知でなければ、とても宇宙の運行は司れない。主宰者のほんの一部を分担させて頂く我々も、予め(あらかじめ)の動きを知らされているし、それを見通す力もある」



その後、仙師は、黒白二つの円い石を示して、瞑目誦咒(めいもくじゅず)し、黒い石によって表される様相を見せてくれました。それは、惨憺たる地獄図で、酷薄残忍極まりない無慈悲の世界でありました。一方、白い石に表される様相は、馥郁たる(ふくいくたる)芳香が天地に満ち、自然が美しく輝く天国図で、天人天女が自在に活躍する自由な世界であります。仙師によると、やがて地獄の様相は消え去り、天界に見える相がこの世で行われることとなるとのことでした。



やがて、修行の場は、ムツァータンゴ山に移ることとなりましたが、移動は鶴仙です。直線距離にして400キロはあると思われるのに、あっという間に到着してしまいました。日が暮れ、三日月に向かって、月の精気を食む坎水印の鎮魂を行いあました。



そして、いよいよ出口王仁三郎聖師から預かった大本の御神体に納まり頂く日となりました。疏勒神仙と笹目師、そして二人の従者は、3羽の鶴仙に乗ってココリシ山中の高原に向かいました。



そして、疏勒神仙は、ご神体について

「あれは御神業が終わったので、玄境にお帰り願うのだ。すなわち大和言葉(やまとことば)でいう『あわぎはら』にお鎮めするのだ。本来ならチベットのヤールツァンプなのだが、すでにかの地は穢れている。そこで崑崙山脈のココリシ山中に御鎮まり願うことになる」と語られ、御鎮めされました。



白頭の仙師から授けられた坎水印と、疏勒神仙から授けられた離火印を合わせて行うものを坎離印と云って、水火の精気を合わせ納める鎮魂です。
https://7-astrorays.jimdofree.com/2018/08/07/%E5%B4%91%E5%B4%99%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E3%81%AB%E3%81%A6%E9%B6%B4%E4%BB%99%E3%81%AB%E4%B9%97%E3%82%8B/

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 17:39:47

場面:
ウラル山 地の高天原
あらすじ
 常世姫は金毛八尾の悪狐となり、ロッキー山、ウラル山、バイカル湖、死海に伝令を下すと、各地より悪鬼などが現われた。
 八頭八尾の悪竜のコンロン王は金毛九尾の悪狐のコンロン姫を妻とした。しかし、コンロン姫は魔王鬼竜王に通じていたためコンロン王の従臣コルシカに暗殺された。その後、コンロン王と鬼竜王の戦いが盛んになり、常世姫の魔軍も戦いに参加して、敵味方のない大混乱になった。
 地の高天原では、国治立命の命で天則を世界に宣伝させたが、誰も聞く者はなかった。日の大神の使神の高照姫命が天界より降臨して、「地上の混乱が天上に映って天界も大混乱しているから、地上の混乱を静める」よう国治立命に命じた。
名称
大八州彦命 鬼竜王 国治立命 コルシカ コンロン姫 コンロン王 高照姫命 常世姫 八百万の神司
悪鬼 悪狐 悪竜 天足彦 天津大神 胞場姫 金毛九尾の悪狐 金毛九尾の白面の悪狐 金毛八尾の悪狐 怪鳥 地の高天原 魔神 魔軍 魔王 八頭八尾の大蛇
天の鳥船 ウラル山 死海 青雲山 地上 西蔵 天界 天竺 天上 常磐城 常世城 常世国 バイカル湖 仏頂山 揚子江 竜宮城 ロツキー山

本文 文字数=4622

第四七章 天使の降臨〔九七〕

 ここに常世姫は、竜宮城に敗れ、金毛八尾の悪狐と変じ、常世城に逃げかへり、魔神八頭八尾の大蛇とともに、天下を席捲せむとし、ロッキー山、ウラル山、バイカル湖および死海にむかつて伝令をくだした。死海の水はにはかに沸騰し、天に冲するまもなく、原野を濁水に変じて悪鬼となつた。つひにウラル山はにはかに鳴動をはじめ、八頭八尾の悪竜と化し、あまたの悪竜蛇を吐きだした。
 バイカル湖の水はにはかに赤色をおび、血なまぐさき雨となつて、四方八方に降りそそいだ。つぎに揚子江の上流なる西蔵、天竺の国境青雲山よりは、しきりに火焔を吐きだし、金毛九尾の悪狐となり、その口よりは数多の悪狐を吐き、各自四方に散乱した。
 天足彦、胞場姫の霊より出生したる金毛九尾白面の悪狐は、ただちに天竺にくだり、ついでウラル山麓の原野に現はれた。ここに常磐城といふ魔軍の城がある。その王は八頭八尾の悪竜の一派にしてコンロン王といふ。青雲山より現はれたる金毛九尾の悪狐は、コンロン王の前に現はれ、たちまち婉麗ならびなき女性と化し、コンロン王に愛されつひにその妃となり、名をコンロン姫とつけられた。
 コンロン姫はウラル山一帯を掌握せむとし、まづコンロン王を滅ぼさむとして仏頂山の魔王、鬼竜王に款を通じてゐた。コンロン王の従臣コルシカはコンロン姫の悪計を悟り、夜陰に乗じてこれを暗殺した。コンロン王は鬼竜王の悪計を知り、悪竜をして、近づき攻撃せしめた。鬼竜王は、死力をつくして戦ふた。このとき常世国ロッキー山より常世姫の魔軍は黒雲となり、風に送られて、仏頂山近く進んだ。空中よりは黒き雲塊雨のごとく地上に落下し、たちまち荒鷲と変じ、猛虎となり、獅子と化し、狼となつて諸方に散乱し、ここに驚天動地の大混乱が始まつたのである。敵味方の区別なく、世界は大混乱状態に陥り、味方の同志討は諸方に勃発した。
 海上には黒竜火焔を吐きつつ互ひに相争ひ、勝敗定まらず、暴風吹き荒み、血雨滝のごとく降り、洪水おこりて山をも没せむとするにいたつた。天空には幾千万とも数かぎりなき怪鳥翼をならべて前後左右にかけめぐり、空中に衝突して、あるひは地上に、あるひは海上に落下し、火焔は濛々としてたちあがり、高き山はほとんど焼けうせ、水上は地震のために巨浪山をなし、天地もほとんど破壊せむばかりであつた。
 このとき地の高天原に、国治立命現はれたまひ、大八洲彦命に命じて、天上の天則をもつて地上に宣伝せむとしたまうた。八百万の神司はこの旨を奉戴し、天の鳥船に乗り諸方に駆けめぐり、天則を芭蕉の葉に記し、世界各地に撒布せしめた。されど一柱とてこれを用ゐる者はなく、かへつてこれを嘲笑するばかりである。大八洲彦命はやむをえず、一まづ地の高天原に帰還された。
 このとき天上より嚠喨たる音楽聞こえ、数多の従神をともなひ、いういうとして地の高天原めがけて降りきたる荘厳な女神があつた。女神は第一着に竜宮城に現はれ、城内にしばし光玉と化して休息し、ふたたび元の女神となり、従神とともに地の高天原なる、国治立命の宮殿に着かせたまひ、
『この度の地上の大混乱たちまち天上に影響し、天上の状態はあたかも乱麻のごとし。一時も早く大地を修理固成し、もつて天上の混乱を治められよ。吾は日の大神の神使、高照姫命なり』
と伝へられた。
 国治立命は神意を畏み、すみやかに地上の混乱を治め、天界を安全ならしめ、もつて天津大神の御目にかけむと答へられた。高照姫命は大いに喜び、大神もさぞ御満足に思召すらむ。妾は急ぎ、貴神の答辞を復命したてまつらむ、と喜び勇んで天上に紫雲とともに帰りたまうた。

(大正一〇・一一・八 旧一〇・九 栗原七蔵録)
http://uro.sblog.jp/kensaku/kihshow.php?KAN=02&HEN=7&SYOU=47

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 17:44:10

曽布川寛 
『崑崙山への昇仙
― 古代中国人が描いた
死後の世界』 

「一 崑崙山」より:

「弱水というのは崑崙山のまわりをめぐる川で、その水は鳥の羽すら浮かばせる力がないほど渡るのに困難な川であった。「山海経」大荒西経は崑崙山の神について述べた後、
  其の下、弱水の淵有りて之を環(めぐ)る
といい、郭璞の注には「其の水は鴻毛も勝(た)えず」とある。つまり、すべてのものを溺れさせてしまい、弱水が一名溺水といわれた所以もここにある。また先に引用した西山経によると、崑崙山の沙棠の実は水を禦ぐ効能があり、この実を食べれば溺れる危険から免れるとあったが、ここで溺れるというのは弱水と関係があろう。すなわち、沙棠の実は弱水を溺れずに渡るための仙薬であったと考えられるのである。
 ではこの弱水を渡り崑崙山へ至るには、沙棠の実による以外、どんな方法があったかといえば、それが龍であった。「史記」大宛伝の司馬貞「索隠」注は、「括地図」を引用して、
  崑崙の弱水、龍に乗るに非ずんば、至れず
という。難所の弱水を渡り、崑崙山へ至るためには、龍が唯一の乗物であった。「楚辞」離騒において、主人公が天上界へ遠征するに際し、崑崙山の頂きへ達するのに龍の引く車を用いているのは、すでにみたとおりである。」




宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる「天気輪の柱」というのは「崑崙山」のことかもしれないです。あの話も二人の少年カムパネルラとジョバンニが汽車(本書だと龍車)に乗って死後の世界へ「昇る途中のさま(中略)を描いたもの」でありました。

http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-2481.html

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 17:51:20

宮沢賢治が訪れたことのない外国を扱った作品の中でも異色の地位を占める「西域(さいいき)もの」と称される作品群があります。「西域」とは、狭義には「中央アジアの北は天山山脈、南は崑崙(こんろん)山脈に挟まれたタリム盆地とその周辺」とされるが、広義には古来、中国人が中国の西方にある地域を漠然と呼んだ総称です。明治~大正期に世界的に関心を集め、ヘディンやスタインを始め多くの調査探検がなされた地域でもあります。

金子(1988)は、「賢治の西域作品(童話・詩)は細かく見ていけば事実誤認や、地理的に無理なところがあっても大枠ではきわめて精通している。」「彼に影響を与えたはずのものをできたらいま一度洗い直し、さぐってみることも無駄ではないような気がする。」と述べています。これを受けて本企画展では、賢治の西域に関する知見を、彼が読みえた当時の学術雑誌や書籍等から探ろうとするものです。また、西域イメージをより豊穣にするべく、現地写真を併せて掲示しております。
https://www.city.hanamaki.iwate.jp/miyazawakenji/town_kenji/kenjievent/1008275/1009761.html



宮沢賢治
『雁の童子』

冒頭から不思議な話で惹きこまれる。いたずらに雁を撃つ男と、それを止める男。命を軽視する者と、それをあわれむ者。そして、撃たれた雁が実は人間という設定には、仏教の輪廻転生の考えを見て取れる。

雁の子どもは男に引取られ、「雁の童子(どうじ)」と呼ばれるようになった。
しかし、子どもは近所の子らに石を投げられ、「雁の童子」と囃したてられる。これは、現代では「いじめ」を連想するが、「いじめ」というより、この場面は「種差別」であろう。
「種差別」という言葉は賢治の時代にはなかったが、人間という種が優越感から他の種を虐待する様を、その言葉が登場する半世紀も前に、賢治は描いている。

ある日、雁の童子は食事に出された鮒(ふな)を食べたくないと拒否する。
また、引かれていく仔馬を見て、重い荷を背負わされる馬がかわいそうだと言う。
雁の童子は人格が形成されていくとともに、自らの意思でビヂテリアンになるのである。

またある日、男が童子と連れ立ち歩いていると、壁画の発掘現場に遭遇する(絵)。壁画には三人の天童子が描かれていた。
すると、童子の様子がおかしい。壁画は王が描いたものだと言う。自分の前世は王の子(あるいは、王の関係者。ここは賢治の原稿が判別できない)で、王は敵に滅ぼされ、自分たちは逃げ落ちたのだ。
そして今、壁画を見て、天からお迎えがきたことを悟った。
「お父さん、お許しください。ほんとうはお父さんのそばを離れたくないのです」そう言い残して、雁の童子はこの世を去る。
なんとも不思議な気持ちにさせる話である。

ビヂテリアニズムと仏教の輪廻転生思想は賢治の作品にしばしば見られるテーマ。それを仏教が伝来した西国へ思いを馳せることで、スケールの大きな作品に仕上げた。

★1907年、英国の探検家スタインが、

★崑崙(こんろん)山脈北麓のミーランにある仏教寺院跡から

★彩色有翼天使★像の壁画を発見した。

★賢治はこれをヒントに、この童話を作成したと言われている。

宮沢賢治
『雁の童子』
http://blog.livedoor.jp/saito0197/archives/321583.html

e: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 18:00:49




三重
水屋神社

“日本で唯一フランスに分社がある”“県の天然記念物・大楠がある”というので、かなり大きな神社だと想像していたのですが意外とひっそりとしていて

社務所には
鶯張りの廊下とか、ラピスラズリの観音菩薩様とか、

源義経ゆかりの正八幡宮額、不思議な光が写り込んだ写真などなど、
http://blog.livedoor.jp/kamuy/archives/51119915.html





: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 18:15:35

水屋神社 -
com › blog-entry-278
2014/12/16 - 義経はこの吉兆に慶び、ここに八幡社を建立したと伝えられています。明治40年、水屋神社に合祀されました。
義経の建てた神社を合祀しちゃったか~
水屋神社
www.mizuya.org › 04_gosaijin › gosaijin
千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。
その後、大化4年(648)奈良の三笠山から素盞鳴命、
龍神姫命を勧請す。
和銅3年(710)興福寺東門院領「閼伽桶の庄」




義経元服のいわれ:鏡の宿 義経元服ものがたり - 竜王町www.town.ryuoh.shiga.jp › yoshitune › genpuku
源義経が元服した「鏡の宿」(滋賀県竜王町鏡)での様子をものがたり風にご紹介. ... ならば、牛若もそれにならい鞍馬の毘沙門天(びしゃもんてん)と、氏神の八幡神(はちまんじん)を烏帽子親にしようと思い

鏡神社(滋賀県竜王町)

源義経公と応神天皇を合祀(ごうし)
「八幡神社」(はちまんじんじゃ)鏡神社の境内社

鏡神社(滋賀県竜王町)の参道石段をのぼった右手、社務所の裏口と御幸山の上り口に位置する山裾に小さな社があります。(神社用車道側)
このお社には応神天皇と源義経公が合祀(ごうし)されています。

応神天皇は五世紀頃の天皇で誉田別尊(ホムダワケノミコト)ととも言われます。
この尊は兵法にすぐれ国を栄えさせ学術技芸を栄えさせた長寿の天皇とあります。
したがって源九郎義経公に合い通じる神と共に合祀されたものと思われます。

この神社は、鏡神社の境内社(末社)のため、あまり知られていませんが、元服後の判官義経公を祀り、他の境内社と異なり京都鞍馬の方角に向けられています。
https://ryuoh.org/yoshitsune_genpuku/hachiman.html


首途八幡宮
(かどではちまんぐう)

 首途八幡宮の御祭神は応神天皇 比賣大神 神宮皇后の三柱がお祀りされています。

  首途(かどで)八幡宮の名前は源義経(牛若丸)が奥州への旅立ちの際に道中安全を祈願した由縁によります。源義経(牛若丸)が16才の時の承安4年(1174)3月3日に鞍馬から奥州平泉に旅立ちました。その折に義経を支援していた金売り吉次の邸があった場所の八幡宮に立ち寄り道中安全を祈願しました。

 源義経が道中安全を祈願した由緒により、旅行安全のご利益があるとして旅立ちの前にお詣りされる方が多いようです。首途八幡宮では旅行安全のお守り等が授与されます。
http://www.kyoshri.grats.jp/shri135.html







踞尾八幡神社 堺市西区津久野町

神功皇后が三韓出征より凱旋の際立ち寄ったとされ、850年社殿を建て誉田別名を奉祀したのが起源。源義経が八嶋に渡る途中、暴風にあい踞尾に避難し馬鞍を奉納して武運長久を祈願した時、休息に腰をかけたといわれる「義経腰かけ石」が境内にあります。

神功皇后が三韓出征より凱旋の際、この地に立ち寄ったと伝えられ、850年(嘉祥3年)現在地に社殿を建て、誉田別名(ほんだわけのみこと、応神天皇)を奉祀したのが起源です。また、配神には母である神功皇后、皇后と共に朝鮮出征で活躍した武内宿禰(たけのうちのすくね)が祀られています。
源義経が八嶋に渡る途中、暴風にあい家来の武蔵坊弁慶などを連れて踞尾に避難し、当神社に馬鞍を奉納して武運長久を祈願した時、義経が休息のため腰をかけたといわれる「義経腰かけ石」が、境内の正面参道階段を上った左手にあります。また、義経一行が神野庄司佐衛門宅に泊まり、千度講が食事の世話をしたので、その時の礼状が踞尾八幡神社古文書として保存されています。
https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/379







八幡神社
祭神名 誉田別命(ホンダワケノミコト)応神天皇

八幡大菩薩ともいわれ、日本の神々の中で最初に仏名を持った神。

大陸文明を我が国に輸入し、
日本文化の興隆に貢献した大和朝廷の傑出した文化人指導者。

http://www.isuminavi.jp/oharahatiman/


八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に
ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、

比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。

八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、
仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。
http://www.usajinguu.com/lineage/

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 18:27:20


三重県の水屋神社の久保宮司さんが面白いことを書いておられる。
 意味も、読み方もわからず
父の代からの踏襲で

★水屋神社の御朱印帳に(★サムハラ)と璽してきたが、このほどある人のおかげでようやく解明できた。サムハラとは 無傷無病、延命長寿の神として知られる。


サムハラは恐らくはチベットの伝説でサンスクリット語の「★シャンバラ」によるものと思われる。 意味は、「幸福の維持・用意・収集・養育、静かで穏やかなこと、平和など」とされている。また「気」のエネルギーにもかかわるともされる。「宇宙森羅万象の気をととのえて、世のゆがみを正道にもどす」と言うことに通じるようだ。合気道の守護神ともされる。
http://kamnavi.web.fc2.com/en/settu/samuhara.htm



↑↑↑


ほら!!!!!!
ほら!!!!!


やっぱり!!!!


布置の超能力ってあたるなあ。


まあチエオクレの小説家ァ?とか
サカウラミ弁護士なんて目じゃないっすよ

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 18:48:20

「あなたの足を引っ張るコミュニティ」は、その典型例。


結論から言えば、そのようなコミュニティとは距離を置くのが一番。


ネガティブな人たちと接しないようにすることで、呪いを遠ざけることができるのです。


特にお奨めする真言は「サンバラサムハラ」。

この言葉は、戦国時代に活躍した武将、加藤清正が自分の刀に彫ったことでも有名


https://www.excite.co.jp/news/article/Sinkan_index_6778/?p=2




三重県の水屋神社の久保宮司さんが面白いことを書いておられる。
 意味も、読み方もわからず
父の代からの踏襲で

★水屋神社の御朱印帳に(hソイサムハラ)と璽してきたが、このほどある人のおかげでようやく解明できた。サムハラとは 無傷無病、延命長寿の神として知られる。


サムハラは恐らくはチベットの伝説でサンスクリット語の「★シャンバラ」によるものと思われる。 意味は、「幸福の維持・用意・収集・養育、静かで穏やかなこと、平和など」とされている。また「気」のエネルギーにもかかわるともされる。「宇宙森羅万象の気をととのえて、世のゆがみを正道にもどす」と言うことに通じるようだ。合気道の守護神ともされる。
http://kamnavi.web.fc2.com/en/settu/samuhara.htm


サムハラ神社(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(※新興宗教です。)まで建立された方もおられます


「サムハラ」というのは民間信仰
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%96%93%E4%BF%A1%E4%BB%B0)ですの。

http://aimeaime.blog37.fc2.com/blog-entry-852.html

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 18:50:57

日中戦争の際には、サムハラの四文字が記された千人針(たくさんの女性が一針ずつ縫って作るお守り)が作られたほどです。

 サムハラの四文字が記されたお守りを頒布する神社仏閣も現れ、仁丹の新聞広告で「サムハラの護符を無料配布」という文字が躍ったこともあったようです。

 そして実際、こうしたサムハラ守りを身につけたり、呪文のようにサムハラと唱えたりした人からは、激戦の地から生還できた、重い病気が癒えたなど、さまざまな体験談がもたらされ、サムハラ信仰は全国へと広がっていくことになります。

 サムハラの四文字は一見、漢字のように見えますが、実際にはこうした漢字は存在しません。無傷無病をもたらす「神字」とされています。

 かつて、とりわけ東日本において、サムハラは知る人ぞ知る存在でした。


岡山県の津山市加茂町に、サムハラ神社奥の宮と呼ばれる神社があることをご存じでしょうか。実は、こちらがサムハラ神社の発祥の地なのです。

サムハラ神社奥の宮
 サムハラ信仰は、遅くとも江戸時代には広まっていたことが文献によって確認できます。中国地方にはサムハラ信仰にまつわる神社もあったとされますが、明治・大正の時期には廃れていたようです。

岡山県のご出身でノートルダム清心女子大学教授の保江邦夫さんには、サムハラ神社奥の宮が幽玄界のピラミッドとつながっているというお話を伺っています。
https://yuhobika.net/yuhobikaweb/%E7%84%A1%E5%82%B7%E7%84%A1%E7%97%85%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E5%9B%9B%E6%96%87%E5%AD%97%E3%80%8C%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%EF%BC%8D/

Re: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 19:14:45

源頼朝

伊勢神宮の古代文字
伊勢神宮に奉納されています。

「ひつきみこと」
(日継尊)
「みなもと よりとも」

源頼朝は鎌倉幕府の初代将軍であり、武家政治の創始者として
朝廷にかわって政治の大権を握った彼であるが
天皇に対する忠誠心はなお失っていなかったのであろう。
http://www.kamiyo.org/kamiyo/rekishi/yoritomo.html

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 19:34:00

古事記

狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

伊須気余理比売(いすけよりひめ)
https://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/manyokahimeguri/kashiramoji/sagyo/1394846597450.html


神武と「阿多」の「小椅君」の妹との間には二人のこどもが生まれた。「多藝志美美命」と「岐須美美命」であ
る。やがて、東征に勝利した神武は「倭國(香春町)」に都(宮処)を定めて、新しく嫡后として「伊須気余理媛」
を迎えた。そして三人の子どもが産まれた。
神武が亡くなった後、先妻、「阿多」の「小椅君」の妹の子、「多藝志美美命」は父神武の二度目の妻、つまり
自分の義理の母である「伊須気余理媛」を妻とする。そして、父、神武と「伊須気余理媛」との間に生まれた三人
の★腹違いの弟を殺そうとする。
「伊須気余理媛」は
★歌でその危機を三人の子どもに知らせる。その歌が「狭井河」と「畝傍山」の歌である。歌
には不安、不穏が込められている。「畝傍山」とは香春岳である。


畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉騒げる


狭井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒ぎぬ 風吹かんとす


http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-1/1-3-7.pdf


「伊勢神宮の古代文字」


源義経(1159~1189年)

アワ文字

(畝傍山 昼は雲と居 夕みれば 風吹かんとぞ 木葉さやける
                     「義経 花押」
http://www.kamiyo.org/kamiyo/rekishi/yositsune1.html

「伊勢神宮の古代文字」
源義経

アヒル草文字


(さゐ川よ 雲田のわたり 畝傍山 この花やきぬ 風吹かんとす)
          「みなもとのよしつね」花押

http://www.kamiyo.org/kamiyo/rekishi/yositsune2.html

さゐがはよ 雲たち渡り 畝傍山うねびやま 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

【通釈】狭井川の方から、雲が湧いて広がり、ほら畝傍山では、木の葉がざわざわ音をたてました。すぐここまで風が吹いてこようとしています。

【語釈】◇狭井河 奈良県桜井市を流れ、大和川に合流する三輪川。◇畝傍山 奈良県橿原市にある死火山。大和三山の一つ。山麓に橿原神宮がある。

【補記】古事記中巻。作歌事情は上記の略伝を参照されたい。

 

畝傍山 昼は雲と居ゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる

【通釈】畝傍山をごらんなさい、昼はまだ雲が静かに懸かっていますが、夕方になれば、風が起り、吹いてきますよ。それを知らせるように、木の葉がざわざわ音を立てるのですよ。


伊須気余理比売 いすけよりひめ 別名:媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)
大物主神と勢夜陀多良せやだたら比売の間の子。父は事代主神とも。綏靖天皇の母。富登多多良伊須須岐ほとたたらいすすき比売・比売ひめ多多良たたら伊須気余理比売とも。
大和三輪山麓、狭井川のほとりに住んでいたが、高佐士野たかさじので遊んでいた時、神武天皇に娉つまどわれ、大后として入内した。天皇崩後は、皇子の当芸志美美たぎしみみ命に娶られたが、夫が先夫との子等を殺そうとしていることを知り、下記の二首の歌を詠んで子等に危険を知らせた。

継父の謀略を知った神沼河耳かむぬなかわみみ命は、逆に当芸志美美命を殺し、皇位を継いだ(綏靖天皇)。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/isuke.html




義経コピペじゃん


てまあ
引用てことで

「頼朝から暗殺されそうだよ。
と、いうことを、
教えてくれる人がいるから、
頼朝には勝って天皇みたいなもんになるし」

てな意味があると。


で、ヨリトモは
それをあとから盗み見たのか
「天皇」
てかいてるんだけど、

それをまた布置君がみてしまって、

頼朝は、神仏によれば
もう魂がねむってる

そうだ

&ひつくの神とかあるから、

ヨシツネの側のチャンス

なのですね。

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 19:37:08



で、出口王仁三郎さんは
まあ、

ホントの意味で義経の味方にはなれていない
とおもいますね。

ジンギスカンとかいってるし、

あとなんか弁慶をバカにしてるし、


あと頼朝の事も
悪くいってないし、

なんかダメなんですよ。

だから
日月神示がでてきたんです
あれのほうがちょっとましです

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 19:56:19

弁慶は富樫に、東大寺への勧進寄進のための文書を(これが勧進帳。実はそんなものはなく即席で)読み上げ、山伏とは何かの問いにも答えて、本物の山伏だと何とか認めさせる。ところが、強力(ごうりき、人足)に身をやつした義経が、もしや義経ではと番兵に見とがめられ、富樫に呼び止められる。

 ここがクライマックスである。弁慶は富樫ではなく、その強力を「お前のせいでいつもこうだ。お前が義経に似ているばっかりに」と責めたて、手にした金剛杖でこれでもかと打ち据える。この男は主君義経のために、義経当人に他ならぬこの強力を本気で撲殺してもよいと考えている。弁慶の死に物狂いの気迫と「狂」気に、役人富樫はすべてを察して一行を通す断を下す。

 危機一髪で関を越えた義経は、弁慶が先ほど自分を打ったのは源氏の氏神・八幡大菩薩の神慮だったと言い、許す。それに対し、弁慶は涙をこぼして義経に詫びる。義経は弁慶のその「神の手」を取って慰める。その後、富樫がわざわざ追いかけて来て、弁慶たちに酒を振る舞う。敵味方とは言え、互いのその後の運命を見越して、生きては決して二度と会えぬ者同士で交わす一期一会の酒宴であった。


 さて、弁慶こそ日本人の謎である。まず、安宅の関での彼の振る舞いはいかにして可能となったのか。義経に付き従う一行には、弁慶の他に四天王と呼ばれる屈強の四名らもいた。その中で初めから弁慶が主導権を持っていたわけではない。この関の手前で、主君義経が「弁慶よきに計らひ候へ」と告げたことで、主権者義経に代わり弁慶がこの難関突破作戦を指揮することになったのだ。義経が天皇で、弁慶は全権委任の行政官(当時は将軍、今なら首相)となったわけだ。

 とは言うものの、この小論で述べたいことは、このような「当てはめ」ではない。歴史上の、また現在も存続する天皇制という「内容」を絶えず産み出し続ける、私たち日本人の中に潜む天皇制という「心の形」を取り出してみたいのだ。ただし、ここでは「勧進帳」成立の江戸時代を中心に、現代に向けて少し測鉛を垂らすだけに留まらざるを得ないことはご了承願いたい。

 次に、富樫とは何者か。役柄では鎌倉政権側の役人である。そして日本人の一典型である。彼は二つに引き裂かれて生きている。公と私に、タテマエとホンネに。江戸時代、ちょうど忠臣蔵の元禄ぐらいだが、「戦国」の最終的終焉とともに日本人の公私は分裂した。富樫は、義経一行を通さず、たとえそこで斬り殺したとしても「悪人」ではない。ある組織に属して、ある人間集団に仕えることによって生計を立てる官僚(組織人)として職務を、命令を全うしただけである。

 しかし富樫にも赤く暖かい血が流れている。


狂とは任侠の「侠」に通ずるものである。しかし「勧進帳」の富樫の時代には、義理は個人の外部にはじき出されて、世間のしがらみ、桎梏(しっこく)と成り果てていた。富樫は安宅の関で弁慶らと出逢ってしまったことにより、そういう義理を捨てて人情へ飛び込んだ狂の人となった。言うまでもなく、弁慶は時代のドン・キホーテである。

 最後の義経とは、実は二重の像を持つ。一つはすでに述べた「天皇」である。最高の天才武将でありながら、非運をかこち、弁慶ら粉骨砕身する臣下に支えされてかろうじて生き長らえる源氏の貴種だ。「天皇」は日本人ではない。どういう意味か。それは私たち日本人の中から誰かが「なる」ものではなく、あらかじめ私たちの前に坐すものだ。「天皇」とは日本人が見るものであり、「天皇」自身は日本人に見られるだけの客体であって、私たちとは交換不可能な存在である。

 ここで、弁慶にとっての義経が問題になる。なぜ弁慶は一身を捨てて義経を護るのか。それは言うまでもなく義経が、弁慶の「天皇」であるからだ。弁慶は義経がただ哀れだから護るわけではないし、ただ主君だということで至誠を尽くしているわけでもない。また、弁慶自身はこの関越えの一件でも分かるように、智仁勇にも優れる武人であり、その気がありさえすれば一武将として自立も十分可能な逸材である。

 そんな弁慶が義経をどうしようもなく欲している。大権を与えられても弁慶は孤独であり、その心の中には「空虚」があるのだ。それは何者かによって満たされなければならない「空虚」なのである。ロラン・バルトは、日本のあるいは東京の空虚として「皇居」を見出したが、日本人の心にも「空虚」がある。それは、抽象的な観念ではなく具体的な事物で埋められなければならない。ゆえに偶像でなければならないのだ。

 弁慶の「空虚」を埋める偶像こそが「生ける義経」である。生ける義経は人形ではない。ここがポイントである。自らの意思を持って、時に弁慶の忠告に逆らったり、時には不運をうじうじと嘆いたりするような、まただからこそ自ら弁慶に情をかけることが出来る、そういう客体なのだ。弁慶は一人では生きられない。絶対に同一化できない、自分に還元できない他者を必要とするのだ。

 弁慶の愛は「アニマ」である。アニマとは、深層心理学者ユングの説く、アニムスと対になった元型(アーキタイプ:人間の無意識の中にある普遍的観念)である。アニマは女性的な愛で没我的・自己献身的・犠牲的な原理である(似たようなことをキェルケゴールが『死に至る病』で述べていて興味深い)。対するアニムスは男性的な愛で自我的・支配的な原理である。

 アニマは、日本人にとっては「母の愛」と言えば分かりやすい。母の我が子への愛だ。支配され、受け容れる愛である。母の心は繊細だが、ある「核」すなわち子を得ることによって、彼女は鬼神をも怖れぬ「自然」となる。弁慶は義経を得て、アニマの化身、そして自在に生き得る「自然」と同一化したのだ。

 もう一つの義経像を述べよう。義経の悲運はどこに始まったのか。それは兄であり鎌倉政権という組織の長である頼朝の命に背いたことにある。



、組織というものを解しない義経が犯した愚昧である。何と義経はそのことにさえ気づいておらず、ただ己の不運を嘆くばかりである。



組織の中で生きられない、あるいはそこに留まりつつも不平ばかりかこつ「はみ出し者」(アウトサイダー)。

 なお、「天皇」は人物像ではなく、あくまで日本人がこちら側から見るだけのものである。また、一人ひとりにとっての「天皇」は違っているし、誰をあるいは何を「天皇」とするかも任意である。たいていは絶対的な客体として向こうから当人の前に姿を現すのだが。弁慶の前に、牛若丸として義経が突然立ちはだかったように。


補足ではない独立した追記)
 「作者と読者は違う」。筆者として「歌舞伎『勧進帳』に『天皇制』を読む」を書き終えて、改めてこの文章を「最初の読者」として読んでみた。
 私は戦慄した。そこに書いてある「日本人」とは私自身ではないか。私は私を超えられないし、私が持っているもの以上は吐き出せないことを痛感した。そこに書かれてあったものは何と、くもった鏡に写し出されたような「自画像」であった。


 「天皇」については、あるいはこういう言い方も可能である。

「天皇」とは、日本人を見る者であると。

その場合、日本人は「天皇」に見られている者である。

「天皇」に見られていることによって「空虚」を満たされる者である。

(「日本人」を複数形にすれば、「天皇の赤子としての臣民」という構図のもう一つの「天皇制」も視野に入ってくる。)

 この「天皇」は彼方にいる。「あの世」にいる。

ここからは義経の童子性にもつながる。

ニッポン教における童子や翁人は、神使、依り代、あるいは神そのものである。

義経の浮き世の「義理」をはるかに超えた

「情深さ」(また、浮き世の「義理」への無頓着)とは、

この「あの世」性から出づるものかも知れない。
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-48.html




世俗から離れ、あらゆる悪徳が存在しない世界。その名を「シャンバラ」という。シャンバラとはチベット語で「幸福の源」のこと。理想郷シャンバラについて、最も体系的に書かれているのは、11世紀に成立したチベット密教の経典『カーラチャクラ・タントラ』(時輪タントラ)である。そこに描かれたシャンバラは、大きな七つの山々に囲まれ、その中央に蓮の花を広げたように存在する。蓮の花弁は8枚あるが、それぞれに12の属国があり、領主が存在する。さらに属国には100ずつの領域があり、個々に10万の町があるという。

 しかしながら、現実問題として、かくも美しい国はチベットにも中央アジアのどこにもない。それゆえ学者をはじめ多くの研究家は、シャンバラは伝説だけの世界、すなわち幻想と考えている。いわゆる象徴であって、精神世界に存在する王国であろうというのが定説だ。しかし、一方でかのダライ・ラマ14世は、幻想説や象徴説をはっきりと否定する。
 シャンバラは目には見えないが、この世に実在する世界だと断言したのである。ために、神秘主義者たちは、シャンバラは中央アジアの地底に存在するのではないかと考えている。


ヒトラーはオカルティストとして知られているが、地底に存在するという楽園シャンバラ伝説に、並々ならぬ興味を抱いていた。彼は地底王国シャンバラこそ、アーリア人の原郷であると考えるに至った。


ナチスの超科学局「アーネンエルベ」の科学者たちを、トルコ、中南米、そしてアジア各国へ送り込んだ。しかし、アガルタ=シャンバラを地上には発見することはできなかった。キリストの聖遺物などを収集し、その力によって世界を支配しようとしたヒトラーだったが、その夢は遂にかなうことはなかったのである。

地球空洞説とシャンバラ

 シャンバラは長らく、地上には存在しないと考えられてきた。それゆえ、この理想郷が実在するならば、それは地底であろうというのが定説となっている。神智学をはじめ、多くの神秘主義者たちはシャンバラ=アガルタは地底王国のことであると考える。

地球の内部に存在する天体は、

光る雲、すなわちプラズマで包まれている。
http://amanakuni.net/uchu/84.html


: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 20:32:05

アンナ・ドゥーリナ 
モスクワ大大学院で歴史学

日本人の宗教観は、もう一つ謎がある。日本は、八百万(やおろず)の神が宿ると言われているが、最も多くの神社に祀(まつ)られているのは八幡神である。その代表的な神の正体は何だろうか。

 もともと渡来系の神であった八幡神は、奈良時代に国家と仏教の守護神として九州の宇佐から奈良の都に現れて、そのあと各地に勧請(かんじょう)されて全国へ広まった。平安後期には、860年に平安京の守護のため男山に建立された石清水八幡宮が伊勢神宮に次ぐ崇敬を朝廷から得た。皇室だけではなく、源氏の守護神にもなって、武士が戦勝を祈願する武神として信仰された。

 中世八幡信仰の特徴と言えば、仏教と密接な関係の中で生まれた個人救済という観念である。つまり八幡神は「大菩薩(だいぼさつ)」として末法の世に生きて苦しんでいる衆生を悟りへ導くのである。八幡神は、救済方法を教えるだけではなく、成仏の果報を既に得たにもかかわらず、新たに出家し授戒して、修行者の見本になった。超越的存在の光を和らげ、末法の塵(ちり)にまみれて、凡夫が認知できるような存在であった。

 しかし、国敵を殺す暴力的な守護神、また生き物を救済する慈悲に満ちた大菩薩という姿は、矛盾が見えるのではないか。八幡信仰においてその矛盾を解消する観念があったのか。例えば、鎌倉後期に作成された『八幡愚童訓』によると、八幡神が不殺生戒を受けたにもかかわらず、「国家のかたきは其限(そのかぎり)にあらず」と、敵が国を脅かす時、殺生が正当化されたと言う。そして、八幡神が戦場で多くの人々を殺した罪を自覚して懺悔(ざんげ)したという仏教的な論理に基づいている記述もある。

 八幡神は、殺生罪業を消除するために、捕らえた生き物を放す放生会(ほうじょうえ)を行うように指示したのである。放生会は、その儀礼の参加者に福業を積ませる八幡神による方便、つまり救済方法でもあった。中世八幡神は、イエスのような究極的な救済者であったと言えるのではないか。

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/88635


宇佐の地方神「八幡神」が"国家神"となった衝撃的な事件とは
【東大寺 ...
https://serai.jp/tour/238289




ということは

御水おくりの
水屋神社(興福寺系)


義経の八幡神(東大寺系)が
合体しちゃってるんですね。

まあ
春日大社も東大寺も興福寺も
たってる場所としてはおなじような
ってかやたら近いような、、

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 20:34:16


伊勢神宮に現存する奉納文は、これまで確認されたものだけで99点あります。

その大部分は藤原鎌足や稗田阿礼、和気清麻呂、菅原道真、平将門、源義経、木曽義仲、後醍醐天皇といった歴史上名高い人物で占められていて、また「古事記」をまとめた太安麻呂や「日本書紀」の編集者・舎人親王なども名を連ねています。

これらの奉納文は、奈良時代から江戸時代中期にかけておよそ1000年年間にまたがり、それぞれの時代に伊勢神宮へ参拝した著名な指導者たちが、さまざまな思いをこめて納めた大変貴重なものです。


漢字が使われていた時代にどうしてわざわざわかりにくい神代文字を使用したのか不思議に思われるところだが、宮司によると、太古日本の神々は外来の宗教と外来の文字を嫌われたので、神前への奉納文は神々の好まれる神代文字で書かれるのが慣例だったという。


と、このように現在の義務教育では、「漢字」と、それから派生した「ひらがな」と「カタカナ」しか無いように記されていますが、現に日本中から、いつの時代のことかもわからないような古代文字が物的証拠として古来より残されている訳です。

さあ、アナタはこれでも教科書の記述を全面的に信用できますか?
https://ameblo.jp/kamiyonokioku/entry-11731050071.html

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 20:42:16

『弁慶』に就いては熊野別当の湛増の子で、紀伊国出身ともされ、生年も不詳で出自や生い立ちも良く分からないが幼名を「鬼若」と呼んだとされ、身元がはっきりしないとされる。しかし、塙保己一が編纂した「群書類從」には「伊勢神宮 微古館所蔵」とされて、【「弁慶」は伊勢神宮外宮神官家度会一族】として系図にも載せられている。詳しくは分からないものの、「吾妻鏡」の中の「義経都落ち」の時に、義経に従った従者の中に、伊勢の人物で伊勢三郎と言う人物が居る。この人物は【伊勢三郎(伊勢国二見郷の人。伊勢の度会義連(ワタライヨシツラ)と言う伊勢神宮の神主の子。】とされており、明らかに伊勢神宮の度会一族が義経に随行している。この系図では弁慶の父ともされる「度会義連」は登場しないが、「弁慶」の父は「僧 浄智」とされており、明らかに両部神道の「熊野本宮別当」で在った可能性が高い。
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/c90fc10d053f03406b10c4b38e276019





義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:00:18





で、
弁慶がなんか魔王尊で
魔王尊卒業して弁慶カブキ不動になった、とか
それはおいといて、



布置の守護霊いや守護神って


八幡さんなんですよ。

で、あまりピンとこないし
頼朝がなんせツルガオカだから


昔から
八幡ってなんか興味ないな

とおもってたんだけど
身内がみると


布置の守護神は八幡さんなんです。


で、

ヒメの神とかいうのがいて
あのかたなんですね

で、現代風に
赤と白の巫女さんででてくるんです。



で、

布置「えー女かよ」

てかんじでもう


ア・フュー・グッド・マン
のトムクルーズが
デミムーアをさげすむように
たまにかろんじてるんですが
まけないんですね八幡さんは超美人なんですよ

で、目はおおきいんだけど
和風といえば和風だし
清楚だし

なーんかピンとこないね。
巫女さんだし。

もう全然ピンとこないんだよね。

で、俺の先祖の土地って
どっちかというと
平家、

平の清盛とかなんだけど

俺のほうは
義経の
あの、
薄墨の笛の縁なのか
義光系の源氏で
武田信玄とかの仲間ねおおざっぱにいうと

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:03:24



で、布置も


地理とか歴史とかの音痴なんですが


俺の身内ってもっとひどくて

地理・歴史・宗教・神話・民俗学

何一つしらない
そういう人で、
そういう人だとしってるんですが

シヌ前に霊感にめざめて
ベラベラ話してて
神仏とか
エルヴィスのメッセージを
詳しく翻訳してくれていたんですよ。

で、
その人が

八幡さんみると
眼のおおきい美人の巫女っぽいカッコの神様で、

オーラまで赤と白なの。

もう赤と白なんですつねに。

だから、これは何かある、
とおもいまして

身内のエスパー能力によってしらべますと

やっぱり
八幡さんて紅白なんですよ。

旗ももともと
源平とかじゃなくて


八幡さんの、、
神功皇后とか
まあそういう時代に
紅白のハタ、

とか

紅白の腹巻で
子供を安産した、
とかたえず紅白なんですね。


いやいや

もうエスパー能力以外なにもいらないですね

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:18:30

神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が織った紅白二本の旗を竿につけ、旗を振って敵 ... 宇佐託宣集に、八幡神は「我は始め辛国に八流の旗となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の ...
https://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/b2e70c6032fa5f2a729a226c43ac27b8


紅白の布は岩田帯または腹帯に縫い付ける、または挿むなどして安産をお祈りしましょう。この布は耶波多布(やはたぬの)と申し神功皇后が安産を祈って鎮懐の石を包んだ広巾の布です。そして八幡の大神を安産なさいましたhttp://www.kushihikihachimangu.com/pray/various/



ほら紅白なんですね。

で、僧形八幡なんてのもありますが

巫女さんぽい女の神様が八幡様なので

義経についてるのはそういう女神なんです。



で、

ア・フューグッドマンの

トムクルーズに
かろんじられるデミムーアのように
いつもなんか
八幡さんて誰かさんに軽んじられがちなので
(ひとごと)
これはいけないとはおもってるんだよね

なんせ守護神だから。

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:22:53

【日本とイスラエル】八幡神社はヤハウェ神社だった(3) | 日本人の ...nihonjintoseisho.com › blog001 › japan-and-israel-210
2020/01/24 - 八幡神社は聖書の神「ヤハウェ」を祀る神社であった。




んー

じゃあ

女の八幡っさんは

巫女ぽいんだけどマリア様みたいなかんじなのかね、、、


義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:25:40



なんか八幡さんて女だからあんまり

役に立たないんじゃないのか

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:28:58



で、ほれ義経ってか俺って
信心ぶかくないから

忘れてた

んだけど、

たしかにね

烏帽子親いないから


「鞍馬のアレを太刀にして
八幡さんをわき差しにして
烏帽子親になってもらう」

とかそういう風にしたので

霊的なママが八幡さんね。



で、
その時、男だとおもってた
んだろうけど

まあ女神だったわけよ

で、八幡さんが義経のママで

弁慶が ぱぱあーなのね


で頼朝も養父ってか
兄をとおりこして

パパ・ゴルツィネっていう
バナナフィッシュのアレなのね。


だから

畝傍山といえば三角関係だし
なんかいつもゴチャゴチャしてるのね。


忠信か弁慶か!

とか

弁慶か静か!

とか

頼朝か弁慶か!

とか。

で、数学的にこれは弁慶になるんでしょうけど

: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:31:03



で、日本の、

人気漫画ってすべて
義経が主人公なんですよ。

もうそのぐらい
布置クンは諸君のハートを
がっちりつかんでいるのです。

別にそうしたいわけじゃないし、
別にそーゆー崇拝は特にいらないんだけど。


ただ、
結果としてそうなってるので、


パパ・ゴルツィネとかみると

あー頼朝ってそーいうことなんだね
とか何となくわかるよね。


あれだと

あの
外人のアッシュが義経で
御稚児だから
性犯罪の被害者っぽいわけよ
で、
日本人の
おっとりしたのが弁慶なわけね。



いつも

相棒はオットリしてるんですね。

だから弁慶も実際は
おっとりしてたんですね


経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:32:24



だから、君らは誰も気づかないでしょうが


銀河英雄伝説も

キルヒアイスがデカイのは弁慶だから、
で、拳銃ってのは
「カタナをうばわれたほうが弁慶」
てかんじにしたんでしょうね、

で、途中でたおれたけど

なんとなくタチオウジョウしてたじゃん。



で常盤御前がもろに
アンネローゼじゃん
姉になってるけども

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:42:42



布置の身内とか親戚の中で


女を軽んじているのは布置だけですね、、

小さいころからそうですね、、


で、海外にいくと


小学生だと1年の
つまり7歳ぐらいの
西洋人の
男の子が、

店の大人の女のヒトらが
なんか
お香とか選んでるのをみて

「女ってやつは!(ムヘール!)」

とかいってましたね。

やー布置の仲間。




女にわからない
ガンダム分解遊びで
気があったからその男子、布置になついちゃって
店からキティちゃん
の小物みたいなのをぬすんできて
「あげる。」

とかホホをあからめてましたが
いらんての

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - --

2020/08/01 (Sat) 21:45:22



海外に結構キティちゃんて
でまわってるんですよ

ポケモンとキティだな。
ポケモンはすごいね。


布置ポケモンのピカチューの顔がきらい

でも晴明さんから、式神みたいなノリで
式神としてのレシラムの
ハンコもらったけど。

でもポケモンよくしらないんだよね




まあ八幡さんてなんで
巫女さんなのかよくわかんないけど

多分、
今の巫女みたいなキャバジョウとちがって

能動的にお告げを垂れるエライ巫女さんなんだよ




: 義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 0

2020/08/01 (Sat) 21:48:24



だからさ、
あんまり戦争のやくには
たたないんだろうけど

詩とか書くのには、いいかもしれないよ
八幡さんは。

そういうオツゲの神さまだからさ

で、オツゲにしたがって
戦争する
とかそういう戦法になちゃうけど。



義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - -

2020/08/02 (Sun) 19:21:44

RT @ravanero: @0sJbaTrFcOfLqxw そうですよね‼️今日も岩手県で初めての感染者が一人出ただけでニュース速報ですものね。一方では最上川が氾濫しているというのに‼️



きじ鳩子@tororothecat

返信 リツイート いいね 3分前



53年ぶりの最上川の氾濫。 被害は小さくないけれど、人的被害が少なくてよかった。 子どもの頃は「最上川は氾濫するぞ」と聞かされ育ちました。 #最上川
@SlotRusshie

32分前

最上川の氾濫も令和2年7月豪雨に編まれるのか

@ikuScom

18:08

@fivetours2005

17:37

もうね、濁流でした最上川 pic.twitter.com/4EzYwcF8NR
17:14

山形JAから毎年恒例の尾花形西瓜が届かないのは、
最上川氾濫による運送遅延だろうな。


テケ@tksan2018

17:13



RT @saitou0611: @saki18176742 陸羽西線とか廃線になるんじゃねとか思ったけど耐えてくれて良かった。最上川が含まれる日本三大急流の内の1つの球磨川に沿ってた肥薩線は悲惨な状況だったし。





播磨国の鉄道・音楽ファン@


山形の庄内エリアといえばもう芭蕉義経芭蕉よしつねばしょっさんつねちゃんばったんツネツネというぐらいこの二人推しなので、司馬遼太郎の義経を一昨日読み終わっておいて良かったです。仙人堂にも行きました。最上川舟下りはあんまよくなかったけど

仔犬養ジン@x_i_n_x

7/26(日) 18:12



義経的な最上川氾濫

義経Ⅹⅶ水屋神社に義経の雲中八幡旗由来額あり。龍神、崑崙山、シャンバラ - 0

2020/08/02 (Sun) 19:23:04



やっぱり

どうみてもこれは司馬遼太郎が悪いんだろうな・・・・

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
アイコン
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.